2017年09月01日

脳科学界のギレン・ザビ

 茂木さんがまた疳癪を起こしているらしい(笑)

文科省の「有識者」会議の国立大学付属校に対する「提言」に対する反論。

 要は自分の母校に馬鹿が運だけで入って来られて思い出のイメージが汚されるのが嫌だ、入れるなら障碍者のレッテルを張ってもらうか、世間体の良い箔を差し出せる人にしろという話だが、

そもそも、各付属校の先生方が、代々、長年、培ってきたスクールカラーを無視して、そこにいわば「土足」で入ってきて、「抽選」をやれだの、「脱エリート」だの、はっきり言って余計なお世話であり、どんな「有識者」たちかしらないが、教育、学びについてのbest practiceをもう一度勉強しなして、自分たちの頭の中をアップデートしてから、他人のことに口を出すようにしていただきたいと思う

という理窟はそのまま彼が日頃しばしば口にしているイノベーションとは相容れない考え方だし、選民思想にも繋がってくる点なので注意がいる。まぁ脱エリートに余計なお世話といってるのだから選民思想なんだろう。しかし偶然に対する許容性・対応力の乏しさを示唆する点で言えば、情報処理力に影響してくるので、この発想は鵜呑みにしない方が良い。今回の発言はおそらくこれから先の彼の言動にことごとく矛盾や「本音と建前」の存在を突きつける余地を生むことになるだろうし、おそらく過去の記述に関しても既に出ていることだろう。

 その話はまたその都度指摘するとして、今回の件で言えば、抽選による選抜というのは既に国立大学の附属校で随分前から行われている。単に彼の母校らしい学芸大附属がそうでなかっただけだ。関東の中学受験に縁がない人には分かり難いだろうが、学芸大附属はいわゆる難関中学の代表格になる。もし彼のブログの相談コーナーに抽選で受かった国立大学附属の生徒が、「抽選で入ったけど学校に馴染めません。死にたいです」と相談して来たらどうするのだろう?「おまえのような奴がいるから学校のイメージが壊されるんだ。さっさと自殺しろ」とでも返すのだろうか?そこまで言えばまだ一貫性がありそうなものだが、おそらく二枚舌で優しく「無理するな」「自分のやりたいように」とでも言うんじゃないかと思う。「自分らしく」生きるということは校風を変えたり壊したりすることも含まれる。

 抽選入試そのものは私は受けた事が無いので現場の様子を説明することは出来ないが、私の知る限り知り合い𝟐人が受けて𝟏人が合格している。また、中学の数学の先生がかつて抽選入試を行う学校の副校長をしていた。楽しかったとは言っていたが、特に抽選に対する𢱧判も批難も聞いたことは無い。個人的に言えるのは、抽選であってもある程度層は限られるという点。卒業生の個人的感情は横へ置いておくにしても、この点は教育改革・実験校の視点からも見落としてはいけない。情報処理としても重要なことで、「自由」や「ランダム」は必ずしも平均を生むわけではないという点は注意してほしい。乱数の説明でも言われることだが、111と同じ数字が続くのも乱数。ランダムにするということは偏ることもあるし、その偏りも受け入れるということになる。

 通常、小学校を卒業すれば地元の公立中学へ進学する。何も考えなければ義務教育である以上、その道になるので、それ以外の選択肢を取るというのは何かしら進路について考えたということになる。この時点でもう偶然ではない分岐が生じている。実際、試験に落ちた人や受験を考えて結局しなかった人を除けば公立中学に通った人は、特に中学進学について本人なり家庭内なりで考えたりはしなかったんじゃないかと思う。

 小学・中学入試くらいだと、進路を考えるというのは、将来何かになりたいからここが良いといった目的がはっきりしている場合でない限りは本人以外の大人が主導的に考えているかと思う。親や周囲の大人が、小学・中学受験させた方が良いのだろうかと考えることで、子供にもそういうものがあると情報が伝わってくることになる。きっかけが友達だったり塾だったりすることはあろうが、間違いなく家庭内で話は上がっているはずだ。その家庭内で学校どこにする?受験する?しない?と議題にすること自体が、たとえ5分の会話で終わったとしても、もう特殊になってくる。大部分はそもそもそういうことは考えないので。南関東は特に中学受験が盛んな地域なので割合としては高いだろうが、それでも家庭は限られてくるし、全国的に見ればむしろ小学・中学受験を考えるのはかなり少数派だ。

 私が知っている範囲でも、たとえ抽選であってさえ、クラスの全員が受けた訳ではないし、そもそも話題にさえ上がっていない。中学受験という世界自体がほとんど知られていなかった。受けた二人のうち一人は、兄が受験校に進学しており、「女の子だから」といって親が無理して勉強させようとはしなかったことからくるものだった。もう一人は親が薬学系の職業で、クラスの中でも頭は良い方だった。合否は偶然かも知れないが、その偶然の選抜に向かった人・その家庭の教育意識はクラスの平均というわけではない。

 同じことは、「調査」でも言える。疫学調査のような何十万単位で行われるものでさえ、人種や地域的偏りは気をつける必要が生じるが、多くの調査はそんな規模にさえ達していない。ひどい場合は数人とか数十人程度。これで論文を書いて「○○な傾向がある」と結論だけがニュースで採り上げられて巷間広まってしまったりする。「中学生の自由研究」と揶揄されるもので、心理学や脳科学の研究でも絶えることが無い。私は中学1年の時に同級生3人と共に文化祭の企画で職員室にいた教師に片っ端から声をかけてアンケートを取って集計するということをやったが、その時の人数と同程度かそれ以下の「実験」というものが、プロの世界に論文として存在しており呆れたことが何度もある。

 その時の調査は茂木さんの母校がウェーバーのオペラをやることに比べたらゴミ同然のお遊びかも知れないし、誰も論文指導なんてしてくれないので自分たちの知っている範囲の知識と技術で出来ることをやっただけ。高校全体を巻き込んだお祭りのオペラで主役を張れば推薦・AO入試でアピールポイントになろうが、有志数人が勝手にやった小さな調査はAO入試で自慢出来るものでも、学術的に価値があるものでもない。しかし「専門家」「論文」という肩書がつくとそれが業界内で価値が無かったとしても、世間一般での影響力はまた違ってくる。なのに人間の心や体に関する実験だった場合、人類の性質を決める命運を握った重大な数人・数十人がどう選ばれたかははっきりしない。たとえランダムに集めたつもりでも、学者の実験に付き合ったことのある人はどの程度いるだろうか?身の周りで考えてみて欲しい。そもそもどこでそんな募集が行われているのかさえ知らない人が多数ではないだろうか?仮に知ったとして、大学や研究施設のある場所まで通える人ばかりだろうか?必然的に都市部や交通の便が良い人に限られないだろうか?平日だったら仕事を休んで行けるだろうか?報酬が出るかボランティアなのかで参加の是非が変わることはないだろうか?集める側がランダムの積もりでも現実的にはランダムとは言い難い集団になっている可能性がある。

 裁判員制度もランダムに選んでいるが、実際に行ける人はある程度限られてくる。この点は制度が始まる前に既に指摘されていた。アメリカの陪審員制度は平日昼間に参加出来るのが専業主婦や引退した年寄やお金に困っている求職者などに偏る傾向にあると。茂木さんは自動的に裁判員制度や陪審員制度は反対ということになる。共通の教育を受けて資格を持った独自の風土を持つ司法の世界に全くの偶然で学力も審査されていない人達が入り込んでくるのだから。選挙区の区割りも人口で区切っているので、選挙民の構成は偶然性が高いし、能力に巵附きの有る人たちの判断で特定の目的を持った集団の動向が左右されることになる。彼は選挙制度そのものにも反対ということになる。民主主義より貴族主義や独裁主義の方が好みなのだろう。

 国立大学の付属校では中学があって高校が無いなど下から上まで一貫していないケースもあるが、小中高が繋がっている場合、抽選であれ試験であれ、小学校6年間・中学校3年間を過ごした人達が作る雰囲気はそのまま高校に引き継がれる。高校から入ってきた人数が少ない場合、高校入試が抽選であったとしても、中学からの進学組に吸収され、全くのランダムとは少し異なってくる点も注意がいるだろう。また、何年か続けば、それこそ校風のようなものが出てくるので、虚実入り混じった形で外部にも情報が伝わる。すると受験を考える人の選択にも影響する。ここでも試験そのものが抽選であるということとは無関係に選別が起こる。国立大学附属の本来の存在意義である「実験的・先導的な学校教育」や「付属校での研究成果を教育政策にいかす」ために万遍ない環境を確保するというのは、意識的に行ってさえ、なかなか難しい話だ。

 他に交通の便も影響する。首都圏は鉄道網が発達している関係で、路線によってある程度文化・気風・収入・学歴などが分れてしまう。昔ほど地縁にうるさくない時代だが、下宿でもしない限り学校から通える範囲というのはある程度限られるので、必然的に層も限定されてくる。東京の都心に在る学校に奥多摩の山奥や伊豆・小笠原の島嶼から通っている人が史上何人いたろうか?現代だと電車に乗ったことがほとんど無い子供が何人いたろうか?放課後に田んぼで遊んだ、山で遊んだ、川に入って遊んだ子供が何人いるだろうか?東京でもまだ畑や緑は残っているが、偶然性を狙ってもなかなかそういった経験のある子をクラスに都合よく集めるのは難しい。

 障碍児や外国人の子供にしても同様で、広く集めることを狙っても、実験教育に都合の良いサンプルを集めるのは中々難しいかも知れない。ある程度親が障碍児教育に関心があったり、送り迎えが可能だったり、日本人との意思疎通や日本の教育情報に関心があるケースが中心になってくるのではないか。茂木さんはブログで一貫して「外国語=英語」でしかなく多様性の否定と選民思想を披露しているが、現実の教育現場は英語も日本語も喋れない外国人やハーフの親・子供が溢れている小学校も出てきている。中国語にスペイン語にポルトガル語にタガログ語にインドネシア語にビルマ語にベトナム語にペルシャ語にと様々で、学校に外国人が一人程度だった時代は校長先生が日本語を教えたなんて話も伝わっているが、今や外部ボランティアに頼ってそれでも足りず、規模によっては放置状態にもなってきている。更に移民を増やそうと画策している政財界の動きがある以上、何もしないわけにはいかない。特に中高での脱落はその後の就職の難しさに直結するわけで、社会の不安定さ・将来的な犯罪やテロの土壌をつくることになる。そういった蓄積された不満の矛先がかつて選民思想を主張して切り捨てた茂木さんやその家族にだけ向くのであればいいが、結局面倒をみるのはランダムな社会の奇特な人・被害に遭うのもランダムな社会の誰でもいい誰かということになる。その時、彼は「痛ましい事件が起こった。被害者にはご冥福を。政治家が悪い。官僚が悪い。有識者が悪い。マスコミが悪い」と言うのかも知れないが、憎悪の由緒はモニターにではなく、鏡に映し出された像にある。

 公立学校における外国人教育の問題は緊急性が高く、研究の必要性は高い。今でも遅いくらいだが、今やっておかないとますます大変な事になる。過去の難民支援が単に住居を用意するだけで子供の教育は放ったらかした結果、育った子供は日本語力の貧困による学歴不足、それによる職の不安定さや犯罪率の高さに結びついた。残念ながら歴史は既に出ている。「難民を受け入れて支援する」「移民を入れて活性化させる」というのは、その人たちの家族・親戚、子や孫の人生の面倒もみるということで、口だけで世話はしない人のその場の感情や労働力の皮算用だけで済むような甘ったるい話ではない。

 日本人同士でも、中学や高校の時期に環境の多様性が削がれるのは問題があるとする考え方は以前からあるようだ。ことに今は一人っ子が多かったり子供が少なく環境の違う子供と接する機会が少ない。習い事どころか遊びでさえも特定の施設に通わせるようになって来て出会いに多様性・偶然性の確保が難しくなってきている。近年、関東では受験に対する親や子供の時間的・精神的負担を考えて、大学までエスカレーター式に上がれる学校に幼稚園や小学校や中学校といった早い時期から通わせる事を望む傾向が強まって来て、受験産業に携わる人間の中でも子供の成長を考えると多様性の乏しさを危懼する声が出ていた。私の頃でも、成績順のクラス分󠄃けをすると人の交流が硬直化するということで、2クラスずつのまとまりで成績を考慮するクラス配置をした先生がいた。私は単純に上から順番のクラス分けでも一番下のクラスにいながら成績なんて気にせず平気で一番上のクラスにも出入りして一緒にお弁当を食べたりしていたが、茂木さんからしたら何でこんな場違いな奴がいるんだ、最上位のクラスの気風やスタイルが失われてトンデモナイという話だろう。しかも最上位のクラスにいた何人かの知り合いはほとんど全員が学力とは無関係に偶然知り合った人達だったのだから、なおさら許せないかも知れない。

 だが、自身の所属や経歴が常に象牙の塔であることをそんなに気にするのならなぜライン・ブログやツイッターのようなことをして更には人の相談になんて乗っているのか?という疑問もある。訪問者は抽選以上にランダムになるわけで、当然彼の基準に満たない人間も入り込んでくるわけだ。あるいは、気に入らない訪問者のIPアドレスは遮断しているのだろうか?そして相談に来る人を心のどこかで見下しているのだろうか?情報処理上も興味深い過程だったのでまたそのうち別途に詳細を話題にしようと思うが、行政から支援を受けている相談機関で、相談に来る人のプライバシーを事細かに書かせたあと、学校名などをネットで調べてそのランクや噂から相手を規定し、イメージに基づいた誘導をおこなったり、見下したり、イメージに合わない返答は噓を吐いているという扱いにして内容を改竄してしまったり、面倒な相手には暴言をはいて来ないようにさせるという集団に関わったことがある。彼等のように、一見弱者に手を差し伸べているような体裁を取りつつ、うだつの上がらない自身の人生に慰みを与えるため、下を探し続けているようなものなら、相談する側もそれなりの注意と割り切りは必要になるということは意識しておいた方が良いだろう。学者としては平凡に終わった彼もそのような動機と心情が混じった、程度の低いものなのだろうか?

 この数ヶ月彼のブログを毎日読む中で、「知能指数の高さと洞察力の高さは比例しない」と感じる点に関して、脳や教育について毎日云々している・単に東大に受かった程度ではなくその中でも飛び抜けたレベルであってさえそれは言えるようだと感じたこと、やたらと肩書や経歴を強調した紹介が多く、他人の権威や本に基づいた意見も多い一方で、それらと日常の瑣末から得た自身の発見に関する記述・思考の水準に随分と大きな差があるという違和感を感じていた。その背景に何があるのか?という点で、自身で「独り学級崩壊」だったと語る注意欠陥多動性障碍の持ち主なことと、分析においては大きな障碍となる負けず嫌いの持ち主であることも分かってきたが、今回の記述で更に、子供時代の環境の貧困さという点もあるかも知れないとは感じている。洞察力についてはなかなか興味深いテーマなので、また別途に話題にする。

 同じ経験でも大人になってからのものと子供の頃のものは影響が異なってくる。また、同じ内容であっても「特別な経験」であることと、「日常的な経験」であることでも影響が異なってくる。情報処理としては、どれか一つではなく、全ての可能性を常に意識できる状態であることが好ましいが、それを大人になってから、心理学や教育に興味を持ってから本を読んで知るのではなく、何気ない日常生活を送る中で気づく・気附いた時に自身の体験のひきだしにも事例を豊富に蓄えていくことで、理解の深みが増して行くし、それを子供の頃に「ふつう」の感覚に達するくらい行えると、それだけキャリアは長い。乏しかった人が大人になってから同じ水準に至るのはかなり困難になる。

 以前、「大学・学部の選び方」で心理学を学ぶことに関して続きをまた書くと言ったが、今回の内容にそれは包含されているので、少し続ける。人間の脳や他人の心理に興味を持つのは結構だが、学びたいのであれば、まずは心理学や類似の本は読まないこと。大学に行って授業に触れてからで十分。ネットの記事でもTVに出て来る「専門家」の解説にしてもそれは同様。𢱧判が出来ない状態で偏見を刷り込んでしまうその前に、まずは身の周りの実際の人間そのものを見ること。友達も友達でない人も、偶然出会った人も、年上も年下も肩書のある人もない人も、共感出来る人も出来ない人も、趣味趣向が合う人も合わない人も。できるだけ多く、できるだけいろんな環境の人を。分析はしなくていい。むしろしない方が良い。格付けや比較をしたい、探偵ごっこ気分で人の心を読みたい・のぞきたいなんて考えているレベルなら、中途半端に知識をかじって節穴になる可能性の方が高いので、生兵法で怪我をする前に諦めた方が良い。単に「こういうこともあるのだな」「こういう人もいるのだな」と無機質な情報としてストックしておくだけで構わない。己の個人的感情に従って評価をしてしまう水準の情報処理力ではまだ素材を活かせる段階には無い。人間は基本的に感情の動物である以上、客観的な思考力を身に付けるには一定程度訓練が必要になる。素材を使ってあれこれ考えるのはそれが出来てから。
 本や番組を通して人を知る事も悪いことではないが、まずは現実の身の周りを最優先して欲しい。補完的な役割として次に本や番組で色んな人の人生や考えを知って欲しい。その時重要なのは、成功した人・肩書のある人に偏らないことと、時代や地域や身分などの背景に左右されないこと、個人的にどう感じるかと事実として何があったかをしっかり分けること、突如注目を浴びた人に流行の最中で情報を得る場合は崇拝にならないように注意すること、小説・ドラマ・映画・漫画・アニメ等はたとえ実話や実在の人物をモデルにしていても、それがあくまで娯楽を優先されて作られたものだという意識を忘れないこと。詳細はまた別途に触れる。

 それから、人数も重要だが、種類の豊富さが更に重要。学問は普遍性が前提になる。普遍性を言うからには、ありとあらゆる環境でそれが通用できないといけない。実際には偏りの多い結果を普遍のごとく騙っているものが多く、それを見破るには論理的思考や読解力が重要だが、加えて直感的に違和感を感じることの出来る下地として経験が生きてくる。心理学の謳う普遍性の脆さに関して個人的にたとえとして思い浮かぶのは、車の左側通行と右側通行。

 自動車がすれちがう際、進行方向に対して右になるか左になるかは、法律で決められている。つまり人為的なもので、本能的なものではない。しかし、一定程度訓練を受け、毎日のように同じ事を繰り返していくと、習慣として身についてしまう。習慣化すると、中央分離帯も白線も何もない未舗装の砂利道で、警察がいなくても自然とルールに則ったすれ違い方をするようになる。すると、これを「人間は本能的に左側通行したくなる動物に違いない」と言い出す者が出て来たとする。証拠が無いと言われれば実際に実験をしてみるだろう。たしかにルールのない状態でも左側通行をする。実験で対象にした人数が少ないに違いない?災害直後の無法状態でも同じことは行われて何百台何千台という車が同じ方法ですれ違っている。日本だけでそう言えるのか?イギリスでも同様に左側通行をしている。日本とヨーロッパだけで世界を語るな?ニュージーランドでも同様だった。香港でも同様だった。南アフリカでも同様だった。ジンバブエでもネパールでもパキスタンでも同様だった。世界中で数億人もの人が左側通行をしているじゃないか。ビッグデータだ。やはり人間はすれ違う時、対向するものに対して左側を通りたくなる動物に違いない!……この理窟で学術論文は書けてしまう。様式や調査の手順に問題が無ければ査読も通ってしまう。素人目には「専門家が言っているのだから間違いない」と思えても不思議ではない外形が構築される。

 現実は言わずもがな、世界には右側通行の国と左側通行の国があり、国の数も人口割合も右側通行の方が多い。英語が絡んでグローバルな視点でものを見て論理的に考えたように思える理屈でさえ、この現実を知っている人には直感的に「おかしい」というのが判断出来る。論理的に左があるなら右の可能性もあるよねと考えて疑問を持つことも可能だし、知識として2つの方式があることを知っている場合もあるし、経験として実際に違う地域へ行ったことがある人もいるだろう。逆に、いくら世界中を旅しても、それが全て左側通行の国であれば、逆の存在が無いというかそもそも逆を考える発想が出て来なくても妙しくはない。いくら英語の本を読んでも左側通行の国ばかりなら同様だ。そして何も考えないかあるいは考える力が不足していたら、逆のパターンは思いつかない。数だけでなく、種類が重要になる。

 右と左の2つならまだ少ない方だ。先程の抽選入試を受けた事例などは、全国にある国立大学の付属校で選抜方法が複数に分かれていたものだし、小学校で1つのクラスに所属するのは一般に30~40人くらいなわけで、パターンも抽選入試を受けた人、筆記試験の学校を受けた人、地元の中学へ進学した人、よその地域へ移って行った人、それらの複数を体験した人と分かれる。全員が同じように地元中学に進むのが当たり前だったり、違う道を歩もうとした人が隣の席にすわっていても交流がなければ、その多様性を現実としては知らない可能性が出て来て、発想としても別の選択肢があることが浮かばない状態になっていておかしくない。私が接した実例は、大勢がいて様々なパターンが考えられるその中の2人という特殊な事情で、当時の同級生でも知る人は少なかったろう。同じクラスになって知り合いだったのは全くの偶然だ。学年で中学受験をしたのは4%に満たなかったが、クラスは違えど全員知り合いな点も偶然でしかない。茂木さんは以前、現代の心理学は統計学を駆使していると言っていたが、統計上4%なら無視しても構わなくなってくる。しかし現実として存在しており、無視をするということはその人たちの人生を否定することにもなる。「多いから」を理由にすると、先程の通行する方法の割合でみても、日本は存在しないことになる。日本語話者に至っては更に少ない、2%以下だ。医学の分野ではその統計でさえ、1万人に1人、10万人に1人といった確率になる、珍しい病気で苦しむ人がいるわけだが、心理学的にはその人達は存在しないか無視しても構わないという結論になる。目の前で苦しんでいる人を見て、スタンダードな事例だけを考えて「はい、大丈夫」でおしまいにするというのは、以前茂木さんが根拠不明の批難に使っていた「医者は国家試験を受けただけでそれ以上でもそれ以下でもない」といった趣旨の発言で批難される側の対象ではなかろうか?ちょっと考えると簡単な例で違和感を感じることができるのが分かるかと思う。ちょうどTVで救命救急医が、「ほんとに危険なお腹の病気ってのは救急に来る人の9%くらいなんですよ。それを一生懸命探すってのが我々大事なんですけども」と言っていたが、救急外来は抽選入試よりもずっとランダムで時間もタイミングも対象も選べないし、原因が何なのかさえ情報が無いことは少なくない。疾病分類はおおまかには1万くらいある。災害対応でも新発見でも組織運営でもこれはつながってくる話。

 知識・経験・理論の3つのフィルターを通せばどこかしらで引っかかるような話でも、経験の箱にストックが乏しく、理論を自身で考えず他人に頼る習慣がついて知識の一種として取り揃えて偏重している場合、知識だけが中心になり、その知識も範囲や運用法に偏りがあると、どんなに貴重な情報、大量のデータを用意しても、有効に分析したり活用したり法則として作り上げることは出来ない。人の心は雨粒に番号をふるようなくらい種類が多い。データを集めて大まかな傾向をつかむことは出来ても、特定個人の特定場面での心理や行為の意味を判断するのは、理論的にも非常に困難。更に難しくするのはそこへ外的な要因や偶然性が加わってくること。偶然の排除を当然とする感覚が染み付いてしまうというのは、この情報処理を不可能にしてしまうことになり、センスを失うことになる。情報処理力を上げるためにはぜひ、頭の隅に偶然という選択肢も想定する習慣、偶然を瞬時に判断して対応する力、偶然を許容し偶然を楽しみ偶然を応用する感覚を身に付けてほしい。これは日本の芸術を理解するにも、次世代のコンピュータやAIを理解するための量子力学的な思考にとっても重要になってくる。
posted by Marimó Castellanouveau-Tabasco at 23:52| 情報処理 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする