2018年09月10日

「らしさ」をめぐるお話½

 最近善知鳥さんが「子どもの絵」というお題でブログを書いているが、なかなか面白い。何が面白いかと言うと、やはり「業界の人」目線になってしまうので、自由なようでいてその枠外に在って何のしがらみも無い私から観ると、「それはそれで窮屈な話だ」とも感じるから。学校や受験を否定して自然体験教室を主催する人が子供を否定する矛盾に陥る現象を以前テレヴィで見掛けた事がある、それと似たものを感じる。

 順序は逆転するが、新しいものから順に個人的な経験と対照してちょっと触れてみる。まず、「夜話2081 屋根瓦の美」では高良大社を描いた作品が紹介されている。小𝟔の夏休みの宿題で賞を獲ったらしい。それに対して善知鳥さんは「屋根瓦を題材に選んだところがすでに非凡」としており、また最高賞を与えた点も褒めている。時期的には「『芸術とはなんぞや』という気持ちがモヤモヤと現れ始めたころ」だそうな。さらに、「子どもの絵は芸術ではない」という恩師の言葉が出て、描いた子は三島由紀夫に傾倒して慶応を出たので「社会人としての人となりが推察される」そうな。

 私は夏休みの宿題で絵を描いてくる事を要求された事は多分無かったと思う。図工系は工作だけだった。別に絵を描いてもよかったではあろうが。都合𝟔回経験しているはずだが、実は工作と自由研究に何をしたのかは意外と記憶が無い。今すぐに出てくるのは小𝟔の時に草鞋を編んだ事だけ。ゆっくり思い出そうとしたり、日記を書いていた年はそれを確認すれば手懸りは出てくるかも知れないが、これを書いている数十分のうちには無理だろう。

 経歴的に言えば、作品は賞を獲っているので推薦;𝐀𝐎ネタになる。適当に理屈をつければ「積極性があって結果を残している」という評価がもらえる。まぁ小学生の経歴が大学受験でどの程度効力を持つかは不明だが。しかし実際の所はというと賞を獲りに行ったかどうかは不明で、「宿題なので描いた、出したら勝手に応募されて、勝手に受賞した」……かも知れない。そうなるとかなり受け身になる。実際私は中𝟑の時に税務署の作文で佳作の賞状をもらった事があるが、別に書きたくて書いた訳じゃなくて宿題だから夏休みの終わりに「要は𝟖𝟎𝟎字埋めりゃいいんだろ、文句でも書いとけ」とテキトーに難癖つけて書いて出しただけだった。審査員がそれを面白がってくれる変わり者だったか、他の応募作品がよほど似たり寄ったりで面白みが無かったか。就活のエントリーシートでも言っていた人がいるが、みんな似たような事しか書かないので大量に読んでいると飽きてくる、変わった事書いている人の方が目に入る……らしい。私も子供の作文でどれを応募作品にするかの選別を少し手伝った事はあるが、専門化した大会と違って全員提出の物は実力差がはっきりしているから自然と「まぁどれか選ぶならこれだよね」と絞れてくる感覚は解らないではない。しかしそれは「一生懸命やった」「楽しんでやった」とは何の関係も無い事で、「大勢の中では目立つ」という事でしかない。本人がどういう意思でもって書いたかは解らず、狡猾な戦略を練ったかも知れないし、いいかげんにやったかも知れないし、何も考えていなかったかも知れない。「一生懸命やった」「楽しんでやった」という視点を重視しても同じ事で、「一生懸命やった」「楽しんでやった」かではなく、審査員にとって「一生懸命やったように見える」「楽しんでやったように見える」事が大事になってくる。結果、狐と狸の化かし合いになったり、疑い深くなったりする人達が出てくる。ブログでも文中、芸術であるべきか否かに関わる話が出て来て、「子供の絵は芸術ではない」という、これは大人に向けられた考えなのだろうが、「芸術であるべきではない」という考え方にも変貌しうる危険がある。その先にあるのは、芸術的な絵を描く子供の否定。子供が描きたい絵を描く事に対して「子供らしくない」となる。「下手でも不精確でもいいから見た物を見たままに、感じた物を感じたままに描けばいい、大人が余計な入れ知恵をするな」……という趣旨で始まった事なのだろうが、それが逆に子供のあるべき姿を固定して枠にはめ込んでしまう事がある点は気をつけないといけない。パブロ・ピカソは幼少期から既に絵がうまかったらしいが、彼にとってはそれが「見た物を見たままに、感じた物を感じたままに」描いただけで、本人としては「描けてしまった」。周囲から褒められていたが同じ年の周りの子と違う事に劣等感を感じていたようで、それが将来、一般人から見れば風変わりでいいかげんに見える画風に影響している。子供のころ自分が描けなかった「ふつうの絵」が理想になっているという逆転現象。しかし、「子供の絵は芸術ではない」を徹底すると、ピカソのように幼いころから写実に優れた子は恐らく「技術はいらない」「子供らしくない」として否定されていたろう。絵を描く事が嫌いになってしまっていたかも知れない。そうなると本末転倒になってくる。

 実際、小𝟏のころに太陽の位置を否定された事があった。主題は忘れたが図工の時間に絵を描いていて、画用紙の右上の隅に¹∕₄円とそこから短い複数の線が出ている太陽を描いた子が私と友達何人かいた。先生は「いつもそんな所にそんな太陽がある訳じゃない」と注意したが、描きたかったのは私の意思ではある。自由に描いていいはずなのに太陽をどう描くかを決められるのは不思議な感じがした。別に私は絵の教室に通っていた訳でもないし誰かに指導されたり本で技術を学んでいた訳じゃない。単純にそういう一種の形式があってそれが良いと思って描いていただけ。

 自然体験教室と最初に書いたが、これはテレヴィで見た特集。学校では教えてくれない事、教科書に書いてはいないことを自然の中で体験し、そこから大切な事を学ぶ……趣旨は悪くないのだが、主催の人は知識や勉強をあからさまに否定していた。しかしこれでは勉強だと思ってもおらず知っている子や、積極的に学んだりする子の居場所が無い。自然の中で楽しく遊ぶ事と、大人に言われて嫌々本や授業で知識を得る事の𝟐つしかなく、其が全く相容れない両極でしか物事を捉えない𝟎次元的な発想では、「ふつう」の感覚で両者を行き来できる子が否定されてしまう。

 自由を主張する時、何かのアンチとしての自由にはしばしば強権的な制約が生まれる事が歴史的にもあって、これは注意しないといけない。
posted by Marimó Castellanouveau-Tabasco at 23:59| 図工 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする