2018年04月27日

デマ発生の瞬間

 情報じょうほう処理しょり話題わだいとして使つかえそうな話が出ていた。役に立たない会議;あとで面倒を起こしかねない計画で行われる意思決定の過程とよく似ている思考でもある。

陣内智則、元妻・藤原紀香と「新幹線で偶然再会」ネタ話を鉄道通が疑問視


 る芸人が、別れた女優と新幹線で偶然隣り合わせた話をヴァラエティ番組で話したが、の内容に対する𢱧判ひはん。提出されている状況は司会の「会ったんやろ?」に対して

「はい。前にです。新幹線で通路を挟んで隣だったんです」
「前の奥さんも気づいているけど何をしゃべっていいかわからん」
「切符を拝見しに来た人が(まず藤原の切符を確認して)、次にボクの顔を見て『エッ!』となった」


 この流れに対して、

 自虐エピソードを笑いにかえた陣内の芸人魂に賞賛の声が上がっているが、一方で鉄道ファンからは批判の声が上がっている。何でも「陣内は“盛り過ぎ”」だと言うのだ。


ということで以下、理窟りくつならべられるが、先に言っておくと「賞賛の声が上がっている」と言える根拠はどこにも書かれていない上、「鉄道ファン」も一人しか出て来ない。細かいことにこだわるならの点にいて説明すべき……となる。矛盾とか、所謂いわゆる「ブーメラン」と呼ばれるもの。一方的に相手を批難ひなんするが自身の論拠や整合性にいては全く説明しないというのは野党や報道関係者がよく使う手法で、「マスゴミ」とか「ネット右翼」とか「フェイクニュース」という言葉が流行るようになった根柢こんていにはこの不信感がある。

 どういう議論が展開されているかというと、「鉄道ファンの芸能ライター」なる、ライターとして活動しているのに名前を出さない人が、

・「乗っていたのは仕事の関係などから考えておそらく東海道新幹線のグリーン車」

「東海道新幹線は2016年3月のダイヤ改正から、グリーン車と指定席の検札を取りやめてい」る

「この話は少なくとも2年は前」

「『前にです』とエクスキューズしているとはいえ、そんな昔の話をなぜ今頃持ち出してきたのか疑問は残ります」


と主張。一見論理的に見えるが、実は勝手な断定が大前提で、確認は取っていない。「大前提が間違っていたら小前提をどんなに変えても永遠に当たらない」というのは情報じょうほう処理の基本なので、この点を疎かにしている点で「ライター」としても信用に置けない。最初に出て来た話に「東海道新幹線」や「グリーン車」という事実は一度も出て来ない。検札の有無にいて考えを巡らせるなら、まずは全ての新幹線;全ての客車で検札の有無を考えないといけない。

 の点は「芸能活動での利用が多いのが東海道新幹線」で、「ある程度売れている芸能人だからグリーン車を使う」という比較的高い可能性をかんがみ、どうしても選択肢をしぼる必要がある場合にこれを選ぶのは悪いことではない。ただし、そうせざるを得ない場合であって、基本は他の選択肢も考慮すべき;限定するなら他の選択肢が否定される理由も挙げるべきとなる。の点に言及𠍟できるか否かで𢱧判ひはんの信頼性は格段に違ってるし、の点にも考えが及ぶかで情報じょうほう処理力の程度も格段に違ってる。つまりの時点で、のライターの情報じょうほう処理力は要注意とう事になってる。

 情報じょうほう処理力に信用がおけないと確実になるのは最後で、少なくとも𝟐年前の話が確定だとして、「そんな昔の話をなぜ今頃持ち出してきたのか」というのはもう理論的分析とは何の関係も無いただただの個人的な感情でしかない。曷其いつの話をしようが勝手だし、前にと言っているのなら「盛っている」訳でも、まして「盛り過ぎている」訳でもない。うのを日本語で「言い掛かり」とか「難癖」と呼ぶ。「昔」の感覚も人其々それぞれ。「過ぎた事は興味無い」とう感覚なら𝟏𝟗日放送で𝟐𝟒日の記事、収録は通常𝟐週間以上前、事情があって予定が詰まっていても更に放送日より数日以上前なのは確実なので、最低でも𝟓日前の話は「そんな昔のこと」とも言えてしまう。また、「十年一昔じゅうねんひとむかし」とう言い回しもあるが、その感覚なら「最近」とさえ言えてしまう。

 同一人物による疑問の提出とされる伝聞は更に続く。

・離婚したのが𝟐𝟎𝟎𝟗年﹦平成𝟐𝟏年。検札廃止の𝟐𝟎𝟏𝟔年﹦平成𝟐𝟖年までに運用された東海道新幹線の車輛は𝟓種類。

「どれもグリーン車は横2列+2列の4列シート」

「『通路を挟んで隣だった』ということですから、B席とC席に座ったことになる」

「座席は窓側が人気で、通常はA席かD席から埋まって行くので、芸能人であるお2人がどちらもそろって通路側に座るというのは考えにくい」

「もしマネジャーと一緒であれば、タレントを窓際にするのが普通」

「2人が通路側は無理がある」

「実際はA席とD席にそれぞれ座っていたのに、話をおもしろくするため通路側にしたと考えることができます」


 先程同様、東海道新幹線である理由とグリーン車である理由はどこにもない。ここで間違っていると全て崩壊するのも同様。

 「通路を挟んで隣」だから𝐁席と𝐂席とうのも問題がある。この場合の「隣」がどの程度の精度で言っているのかがはっきりしていない。「同じ列」とうニュアンスで隣と言っている場合もある。「マネジャーと一緒であれば」とう仮定を持ち込んでいるなら尚更なおさらの場合を想定しない点は問題になる。一組と一人、しくは二組とうくくり方も𠍟できるのだから。家族連かぞくづれがレストランでばったり出逢であって、「昨日○○さんと隣同士だった」と言ったら、「正確には間に子供がたから隣同士ではない。話を盛り過ぎ」なんて言い出したら読解力を疑った方が良い水準で、場合によっては発達障碍の可能性すら出てる。已前いぜん、「活けまして弓得とうございます②」で「階層」という話をしたが、この場合の隣も、
𝟏輛━








𝟏列┳𝐀席
┗𝐁席
┳𝐂席
┗𝐃席
𝟐列┳𝐀席
┗𝐁席
┳𝐂席
┗𝐃席


となって、「隣」が①~④の哪の階層で言っているのかは状況に応じて考えないといけないし、常に最も深い部分で言い分けているのか、そう捉えるべきなのかは考えないといけない。個人的に感じる実態としては、少なくとも

⑴区別がついていないが、気にしていない
⑵区別がつけられず、執着して逃れられない
⑶区別はついているが、必要があって執着している
⑷区別はついているが、皮肉や冗談で曖昧にしてみせる


という分岐があって、判断する人の実力や、判断した人の意図を読み取る人の実力が試される場面でもある。階層化已外いがいに広義;狭義、「言葉ことばあや」と呼ばれる視点でもある。これは縦の方言にも通じる。哪方どちらか一方が着いてこれないと話が合わなかったり誤解が生じたり、間違った分析をすることになる。うまく一致すると会話がスムーズに進行し、時に言葉をほとんど要さずとも通じ合う事が可能となる。

 「窓側が人気」で「芸能人」だから「通路側に座る」のは「考えにくい」というのも、イメージであって、常にそうと言えるのか、この場合そうだったと言えるのかというと、全く根拠が無い。トイレに行く際に手間;到著とうちゃくの際に早く出たい;圧迫感を感じるのが好きではないとう理由で通路側を好む人もる。別に無理があるとは言えない。

 また、④階層での「隣」を意図して話していたとして、それが正確でなかったから実際とは違う「通路側にした」とも言えない。勘違いをしていた丈の場合もあるかも知れない。正確におぼえているとう保証は無いし、正確におぼえていなければならない重要な場面だと本人が認識していた;認識していなければならないと言える根拠も無い。「考えることができる」とう言い回しで誤魔化しているが、明らかに存在する複数の場合を全く否定していないどころか言及さえしていない主張では「考えることはできる」とは言えない。の程度で「考えることができる」と言えるのなら「このライターは犯罪者だ」とだって言えてしまう。鉄道ファンにはルールを守らない人がいる。ネットで非難する人には匿名が多い。ネットで犯罪をする人には匿名が多い。だから鉄道ファンで匿名のこのライターは犯罪者だと考えることはできる……とう理屈で。個人的に好きなのは「パンが危険だ」と誤解させるような理窟りくつを列べた小文。

・犯罪者の𝟗𝟖%はパンを食べている。
・パンを日常的に食べて育った子供の約半数は、テストが平均点以下である。
・暴力的犯罪の𝟗𝟎%は、パンを食べてから𝟐𝟒時間以内に起きている。
・パンは中毒症状を引き起こす。被験者に最初はパンと水を与え、後に水だけを与える実験をすると、𝟐日もしないうちにパンを異常にほしがる。
・新生児にパンを与えると、のどをつまらせて苦しがる。
・𝟏𝟖世紀、どの家も各自でパンを焼いていた頃、平均寿命は𝟓𝟎歳だった。


 の程度で「考えることができる」とするなら、「犯罪者が犯罪を犯す前にパンを食べている事が多いので、パンを食べている人は犯罪者だ」とも言える。しかし日本では江戸時代真っただ中の𝟏𝟖𝐜․世紀にパンを日常的に食べる習慣は無いので、日本人ならぐにおかしいと解かる話のはずだが、残念ながら実際はそこそこ通用してしまうだろう。専門家でも明治以前はヨーロッパで、の前がギリシャだったかのように歴史を語る人は少なからずいる。学校の国語や歴史の勉強の大切さはこういうところに表れる。『ウィキペディア』には他に「𝐃𝐇𝐌𝐎」という話も出ている。個人的には大学受験の頃目にした洗濯に関する一文も好きなので、また機会が有れば引用してみたいと思う。

 いずれにせよ、冗談として挙げる分には笑いの𥠭ネタになるものの、真面目まじめに分析しての結果なら、ただただの分析力不足とう事になってる。

 それから、「話を面白くする為」としているが、意図的な改変があったとして其処そこまでの意図が有ったか否かもはっきりしない。本人は面白いと思っていないかも知れないし、話の𥠭ネタが無かったので苦し紛れにしぼり出した記憶だったかも知れない。「面白い話だから意図的に面白くした」とか「芸人だから面白くした」と必ず言えるとは限らないし、事実だった場合との区別をって付けるのか?とう問題が出てる。の記事自体が、「読んでしいが為にでっち上げたに違いない」と言えて其已外いがいに選択肢が無い事になる。

 これは単なる笑い話の一場面に対する考察なので、宜加減いいかげんな事言ってるな程度に流せばい話だが、情報じょうほう処理の話題としてる場合、の思考過程には注意すべき点が幾つもちりばめられている。

 何かの企画をする為の会議でも同様だが、るテーマに関して、最初に幾つか知っている情報じょうほうを持ち寄って提出する。プレゼンしたり資料を配ったり、思いつく事を並べて行ったりと方法は色々ある。問題はの提出された情報じょうほうに対する扱いで、先ほどの例のように、議論の参加者が考える大前提や階層が異なっていると話が合わなくなってるか、一見議論が進んでいるように見えて𨒥あと齟齬そごが大きくなってる。𣵷あるいは上位階層の話をしているのに些末さまつこだわって肝心の話ができなかったり時間を浪費して効率が悪くなってしまったりもする。已前いぜん話題にした「活けまして弓得とうございます」や「活けまして弓得とうございます②」のムーミンの話のように、リーダー向きの人材とそうでない人との差も出てる。ただ、今回の事例では些末さまつに拘ったところで飛躍が多く論理的にも鉄壁とは言い難い雑な議論なので、間違いを探したり機微にこだわる必要がある専門的な話にも向いていない。むしろ、中途半端な分析でデマを流すタイプな可能性があって会話や交際に注意のる人物と考えておいた方が良い。噂話で流れるデマはの手の水準の分析をして他人にしゃべる人と、それを真に受けて他人にしゃべる人の連続で形成されて行く。ってデマが生まれて行くかを目の前で観察する機会に恵まれ記録を取ってみた事もあるので、し余裕が有ればいずれ何らかの形で公開してみたいなとは思っている。

 企画や会議で特に気を附けないといけない点は、最初に何らかの調査結果やデータが提示された時で、全員がそれ無𢱧判むひはんれて議論が進む危険が一つ。東海道新幹線を使うのが普通かどうかはっきりしない、検札廃止の時期がの時期だったのか疑問に思うが自分もはっきりおぼえていない……とう場合。事前に資料が配られたり扱うテーマが発表されていない場合、ぶっつけで資料に目を通して𢱧判ひはんを行わないといけないので、実力が要求される。知識があっても解法丸暗記で乗り切って来たタイプだと初物に対応できな&cなどの問題があるし、頭の回転が遅い人であれば完全に発言人のペースになってしまう。また、事前に目を通すことでチェックしておきたい情報じょうほうがあれば効率も上がるが、「事前に知らされていない事に対応する重要性」を説く人が、それを嫌う場合がある。対応できない人に対しての要求と、既に対応𠍟できるが更に上を行って先を見通している人との区別ができない。後者の場合、の組織や集団にても其以上それいじょう実力は伸びないので、離れていってしまう可能性が有る。

 もう一つに、最初の段階で客観的なデータが提示されても其以降それいこうの議論に客観性が担保されず、どんどん現実から乖離かいりして行く危険がある。「東海道新幹線を使う場合が最も多い」とデータが示されていて、全員が東海道新幹線の場合だと認識して議論を進めるまでは問題無いが、次に「普通グリーン車だよね」、「窓側が良いよね」、「嘘ついてるよね」……とはっきりしないの場の雰囲気だけで仮定に次ぐ仮定が積み上げられて行く。結果的にそれが当たったとしても、単なる偶然かそれに近い𢪱もので、実力ではない。本当にそう言えるの?と逐一確認を取って行く手間をかけないと、𨒥あとで見当違いとう事になりかねない。確認が取れてないなら𝟓分で会議を切り上げて次回に回す事を繰り返しても全く問題無い。行政の施策が住民の要望とかけ離れていた……とうケースでも、一部のデータだけで、𨒥あとは仮定と論者の主観や願望の積み上げと感じられることがある。別に現場に行けば良い訳じゃない。已前いぜんも書いたが、「現場に行こうが行くまいがわかる人にはわかるし、わからない人にはわからない」。現場に行かないと得られない情報じょうほうが有るから行くのであって、行かなくても得られるのなら、必ずしも行く必要は無い。時間の無駄。現場に行けば何でもわかると思っている人は情報じょうほう処理力が高いとは言えない、ネットで何でもわかると思っている人と同じ水準なので気をつけた方が良い。

 一つ一つ確認を取って積み上げて行く事が適していない、間を省略する事が求められる事態とうのは、時間が無い時と緊急事態の対処の時。しかし、緊急なら難易度は変わらないかむしろ高くなっている可能性もあるので、対処する人間に実力が求められる点は変わらない。だから人材に不安があるなら失敗する場合も想定して二の矢三の矢も撃つ必要が出てるし、其処そこまで先を見通して指示が出せる人材が求められる。

 リーダーを育てる教育とうのはう複層的;他段階的な処理を同時に行っていける、の為の足場づくりを平時からこまめに行っていける人間や、其処そこに直接関わらずともの手間を理解𠍟できる人間に対して行う𢪱ものなんじゃないかと個人的には感じる。誰でも良いとは思わない。「優秀な人材」とう曖昧な説明しかできない経営者が多いが、個人的には其うう発言を聞くと、の組織大丈夫なのかな?と疑問に感じたりする。
posted by Marimó Castellanouveau-Tabasco at 11:04| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする