2018年04月21日

講釈師、見て来た様な 噓を吐き

世界中で研究“オオカミに育てられた子”の実記は嘘だった…(その1)


という記事が紹介されていたので読んでみたが、情報処理として使える話だったので触れてみる。

 記事は『狼に育てられた子』という本が実話として紹介していた話が実は噓だったというもの。記事の筆者は𝟑𝟎年ほど前に知った本としていたが、噓という話になったのも𝟑𝟎年以上前なので、別に最近の話題ではない。単に記事の筆者が最近話題にしてみただけ。

「子どもの発達に関する研究材料として世界的に広まっており、日本でも大学のほか小中高の道徳の教科書などに掲載されている。私の父も、社会学の教材で使ったという」

とのことだが、近年こそ小学校の道徳の授業に教科書や評価を導入することが話題になったものの、個人的には、小学校の道徳の授業で教科書を貰った経験は無いし、中高では道徳の授業そのものが存在しなかった。大学レヴェルの講義でも社会学系;心理学系;生物学系の教材として触れた記憶は無い。ただ、小学生の頃漠然とそんな話はどこかで耳にしたことがあるので、懐かしくは思う。

 派生として明確に記憶にあるのは漫画の題材に使われていた事。『さきがけ男塾おとこじゅく』の中に出て来る狼蒼拳ろうそうけんという架空の拳法は、生後𝟑ヶ月の男子を狼に育てさせ、警戒心を解いて狼を戦闘に利用する拳法という設定になっており、架空の出典として太公望書林の『狼少年おおかみしょうねんけん─』という書物も出ていた。これは『狼少年ケン』という古いアニメのパロディだと直ぐにわかるもので、その『狼少年ケン』も『狼に育てられた子』から着想しているのかも知れない。小学生でも冗談でやっているというのを理解し笑いながら読んでいたので、漫画に出て来る架空の典拠情報を当時本当に信じ込んでいた人が少なからずいたという話は大人になってから知って驚いた。幼稚園児くらいなら信じてしまうのかも知れない。ネットでも一時期「民明書房みんめいしょぼう」という出典で有り得ないことをさも実話のように書くのが流行った時期があるが、民明書房も『魁‼男塾』で架空の典拠としてしばしば登場した名前。知らない人は注意した方が良い。

 『狼に育てられた子』の話は記事によれば、

「米紙『ニューヨーク・タイムズ』、英紙『ウエストミンスター・ガゼット』などで報じられ、世界中の研究者の注目を浴び」、「アメリカの児童発達心理学における大権威であったイエール大学のアーノルド・ゲゼル教授が注目、紹介本を出版。これによってお墨付きを得た「狼に育てられた少女」は、世界中に重要な研究対象として広ま」り、「日本でも、教育心理学、発達心理学、幼児教育学、脳科学、精神分析学、生物学、言語学などありとあらゆる学術研究の土台として取り入れられていった」という経緯だった。


 結局、狼に育てられた人を実際に目にした学者がいなかった為、のちになって現地調査したところ、捨てられた自閉症の子供を牧師が演出したのが実態だったらしいという結論になったところまで紹介されている。その上で改めて本を読んでみるとおかしな点がいくつもあるという話になっている。

 心理学者や精神科医が実際に見てもいないものをまるで見たかのように分析するのは別に珍しいことではなく、現代日本でも殺人事件が起こると「専門家は」という前置きで報道番組が丸投げする様式はよく𝐓𝐕に出て来る。民放も𝐍𝐇𝐊も変わらないし、ニュース番組もニュースショウも変わらない。私はワイドショーはほとんど見ないが、わずかに知っている分でも実態は同様。そしてその分析が、少なくとも論理的にはしっかりしたものであるならまだしも、明らかに根拠不十分で仮説としても成立していないことが多い。個人的には素晴らしい推理だと思ったことが一度も無い。ネットの宜加減な書き込みが非難されることはしばしばあるが、そういう人達は𝐓𝐕でどんなことが言われているかを知らないか、見て見ぬふりをしてネットの問題に矮小化しているかということになってくるので、その指摘をする専門家の情報処理力もして知るしということになる。

 已前、「脳科学界のギレン・ザビ」で自動車の左側通行と右側通行の話題をしたが、個人としての資質だけでなく、学界として成立してしまう雰囲気が土壌にあることも問題だろう。大学で学問をかじる際は、各ジャンルで最初に研究史を学んで、いかに言ってることが二転三転して来たかを知り、𢱧判ひはん的精神と論理的思考の大切さを再確認する必要はあると思う。いくら間違っていたと知って反省しても、あとからあとから知らずに入ってくる人がいるのだから、その人達が意識しなければ同じことは繰り返される。わかっていても繰り返されるのだろうが。

 実はこの記事にも問題があって、私が読んださい、主張していた牧師の写真や資料だけで本当だと言えなかったのなら、現地調査して得た人々の証言も本当かどうかわからないのに、どうしてこの筆者はその点に無頓着なんだろう?という疑問があった。狼に育てられた子の話の本質的な問題点を理解していれば、必ずそういう疑問は出るはずで、その点でこの筆者の情報処理力にも疑問が生じる。そして、検証して来た人達がまともであれば、嘘だと断定するに至った根拠はこの程度じゃないだろう……と、とりあえずウィキペディアを見てみた。

アマラとカマラ


 そうすると、やはりかつて行われた調査の中には、証言に金銭目的で口裏を合わせたとみられたケースもあることが書かれており、否定的な見方に一致していく根拠には各人の証言や情報に食い違いがあることや、生物学的な疑義など、単に否定的な証言が複数あったからではなく、複数の情報を突き合わせて比較した結果であることは読み取れる。

 ということで、狼の話から離れて情報処理一般の話をするが、る事実が提出され、それを虚偽とする反論が沸き起こると、あとから出た話の方が本当のように思えてしまう人は気をつけないといけない。現地に行って当事者の知り合い何人かにいて回って「見たことが無い」「聞いたことが無い」程度では反論としては弱い。報道ではよく行われることなので気をつける必要がある。同じ理屈で、例えば学校のトイレが和式で使い方がよくわからないから学校では我慢してトイレに行かないという人がいたとすると、学校でしか付きあいが無いその人の友達だったら、いくら訊いて回っても「トイレに行ったのを見たことが無い」ということになる。では、その人が「昨日はお腹が痛くて学校休んだ。何度もトイレに駆け込んで大変だった」と言った場合、それは「トイレに行ったとかお腹が痛いなんて噓だ。トイレに行ったのを見た人はいない。ズル休みに違いない」と言えるだろうか?「トイレに行かない人間なんていない」という常識が大前提としてあるからおかしいと思えるだけでは不十分で、考え方の過程に問題がある点に気附かないといけない。

 他にも、例えば特定の友達は知っているが、その人已外に話していない内容であれば、「同級生」「幼馴染」「家族」「同僚」「ご近所」といった近いくくりであっても、知らない人何人に訊こうが「そんな話知らない」「見たことない」となる。この場合、誰も噓をついていないことになる。話題にならなかったので話さなかったのであれば、本人已外知らない。こういう状況では、少なくとも証言から真偽を判定するのは不可能になる。

 証言の食い違いや記述の矛盾についても、真実と認定するのが難しいと同時に、それが虚偽であると判定するのも意外と難しい。例えば、

「どうやって行きましたか?」
「飛行機で行きました」


 他の人に訊いて回ったところ、「彼は電車が好きなので飛行機は乗らないと言っていた」「いつも新幹線で行くと言っていた」という証言が複数得られた場合に、飛行機で行ったという話が噓だと言えるのか?話題にしているその時はスケジュールの都合で新幹線が使えなかったとか事故や災害で急遽きゅうきょ変更したといった場合もあろうし、そうなると渋々飛行機に乗ったかも知れない。少なくともそれだけでは乗っていない理由にはならない。更に情報を確認する必要が出たり、もっと別の根拠が必要になる。つまり、指摘をした側も𢱧判の対象になってきて、𢱧判に堪えられる必要がある。この点が日本では教育されておらず、大卒でさえ実質高等教育を受けていない名許り大卒と感じられることが物凄く多い。

 真偽の判定で特に面倒なのが偶然という要素の混入で、意図的な噓と、単なる勘違いとは似て非なるものだが区別が難しい。飛行機で行ったと言っているが、𝟑年前に話していた時は新幹線で行ったと言っている。矛盾しているから行ったのは噓に違いない……それはわからない。しょっちゅう飛行機や新幹線に乗っている人なら逐一おぼえていないだろうし、別の機会と混同していれば勘違いすることもある。行動や発想がワンパターンな人は多様性に対して非常に不利になるので、分析にはあまり向かない。最初に選択肢をどれだけ広げて潰した上でその指摘に至るのかが鍵となってくる。

 𝟎次元思考の人がよくやるのは、無理矢理二者択一にして強引に正解を出す論法。

「どうやって行きますか?」
「決まってない。飛行機で行くこともあれば新幹線で行くこともある」
「どちらが多いですか?」
「わからない」
「どちらかといえば?」
「どうなんだろう?新幹線かな?」


という流れで「この人は新幹線で行く人だ」というレッテルが貼られる。すると「飛行機で行った」が噓という話になってくる。こうやってテーマをはっきりさせて文章にすると無茶な話なのはわかりやすいかも知れないが、日常会話の中ではけっこう見受けられる。この手の情報処理をする人には「状況による」という回答が通じないので会話には注意がいる。そして、心理テストでもしばしばこういう強引な二択;三択;五択が使われる。心理学では生まれてこの方一切変わらないという大前提があるのか、「状況によって異なる」「慣れる」「ケジメ」という概念が見受けられないと感じることが多い。ビッグデータを人工知能で処理しても大前提が間違っていると当たることは永遠に無いので、気をつける必要がある。

 𝟏日は𝟐𝟒時間、𝟏年は𝟑𝟔𝟓日。この基本をちゃんと理解していない人もいる。正確に何分何秒だとかそんな細かい話ではない。年に何十回も機会があれば、新幹線が多くてもたまには飛行機になることはあるかも知れないし、飛行機に乗って降りてから新幹線に乗ることも可能ではある。趣味などは特にそうで、例えば「趣味は読書」と答えたとしても、年中読んでるとは限らない。已前程度の問題は「『共感する』ということの情報処理」で話題にしたし、「縁側濡れ縁気になる木 鶯張りの木ですけど 朽ちてるだけなので 踏んだら抜けるでしょう」では出席日数の話で数字のトリックも話題にした。

 「相対」と「絶対」は情報処理の基本で、中学校の理科でも出て来るが、理解していない人は大人でも見受けられる。「得意科目は英語」と言った時に、英語已外はからっきし駄目なのか、他も出来るのかはそれだけではわからない。また、点数が高くても得意だと思っていない場合もある。好きなのと得意なのともまた別。本人は得意だと思っているが全体からすれば別に突出しているわけじゃない場合もある。例えば

それぞれの全国平均が𝟕𝟎点だとして、
英語が得意です……英語𝟖𝟎点;数学𝟓𝟎点;国語𝟓𝟎点
英語が得意です……英語𝟓𝟎点;数学𝟑𝟎点;国語𝟑𝟎点
英語が苦手です……英語𝟖𝟎点;数学𝟏𝟎𝟎点;国語𝟏𝟎𝟎点
英語が苦手です……英語𝟕𝟎点;数学𝟕𝟎点;国語𝟕𝟎点
英語が好きです……英語𝟖𝟎点;数学𝟖𝟎点;国語𝟖𝟎点
英語が好きです……英語𝟕𝟎点;数学𝟕𝟎点;国語𝟕𝟎点


のようにケースは様々。人によって「ふつう」の感覚が違うことでこうなる。なのでそういった細かい事は「得意科目は英語」の一言では区別ができない。しかし「得意/好きと言ってるのだから高いだろう」「苦手/嫌いだから低いのだろう」と、受け手の好みや常識を勝手に混入すると、それが判断できない。そして、想定外の話が出た時に「嘘を言っていた」という反応をする人が出て来る。就活の面接でもその他の面談などでも、「この人はこの質問だけでどうやって判断するつもりなのだろう?」と疑問に感じたことが多々あるのだが、それは同時に、質問者やその組織の情報処理力に対する印象に繫がってくる。

 ネットの書き込みをみていると、携帯電話やスマートフォンが当たり前になり、またネット上にアップロードすることも一般的になってくると、写真や動画を撮っているのが当然と考える発想も出現し始めているのを感じるが、当然その考え方は問題がある。好きだから;物珍しいから撮るなんて決まっていない。撮ることが習慣づいていなかったり、タイミングを逃せば機材があっても形には残らないし、勿論編集されていることもある。逆に編集されているから嘘とも言い切れないし、古い曖昧な絵や物語でも、何らかの事実を内包している可能性もある。その点で最近の学術論文不正疑惑では、結論に影響する恣意的な改変と、結論に影響しない削除やトリミングが同じレベルで捏造扱いになっているとみられるのは問題だと感じる。役に立たない金銭;誉目的のノイズを排除することに躍起になって、優秀な人材や注目すべき議論;情報が排除されてしまう可能性が出て来る。

 どういう議論であれ、確定させるには段階を踏む必要がある。言葉にすると実につまらない話だが、同じことは繰り返される。不思議。

 そういえば話題にしようかと思いつつ結局しなかった話もリンクだけここに置いておこう。

「ちょっと盛られた」臨床試験の気付き方

感情の黄金比「3対1の法則」に数学的根拠がないと見抜いたのは中年の素人だった

多くの心理学入門書には学問的に誤った内容が記載されている


𝟑つめの文章はちょっと注意が要る。指摘は嘘が書かれているというよりは、通説でない少数説や異端説だから問題だとしている風で、内容ではなく数ということになってしまう。これでは上のリンクや今回の冒頭にあったような流行は正しい、教科書に載せるべきという過ちをおかすことになってしまう。
posted by Marimó Castellanouveau-Tabasco at 15:39| 情報処理 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする