2018年04月06日

報復・煉獄・掃討

 朝テレビをつけたらニュースでアニメーション作家の高畑勲さんが亡くなったと出て来た。

 私は名前程度で詳しいことは知らないが、『ほた
火垂
るの墓』や『平成たぬき
合戦ぽんぽこ』、『かぐや姫の物語』というアニメ映画作品は一応わかるといえばわかる。『火垂るの墓』は毎年𝟖月になると放送されていたので小学生の頃から名前は知っていたが、私は退屈で最後まで見たことが無く、𝟑年前に初めて最初から最後まで見た。神戸空襲から戦後直後だったか、原作者野坂昭如さんの実話がベースになっているらしいが、当時の生活の風景を知るには細部もよく表現されていて好かった。「語り部」という形で戦争体験を体験者から聴く取り組みが強調されることは多いが、空襲だけを切り抜いても当時の生活がピンと来なければ言葉だけではなかなか解り難い面もある。まして現代的な都市社会しか知らない環境で育った人の場合は余計に解り難いだろう。映像を通してそういった面を知ることができる点では重要な作品と言える。

 『平成狸合戦ぽんぽこ』もテレビでやっているのに出くわして部分的に見たことがあるものの、内容の記憶はほとんどない。

 『かぐや姫の物語』もやはりテレビ放送で最初から最後までみたが、これは素晴らしかった。日本らしい四季の移ろいの時間的な感覚、淡い色彩で貫き最後に一転、極楽浄土を描く時に使われた華やかな色使いを持ち込む感覚、無音も含めた無駄の無い音の使い方、かぐやと彼女をとりまく大人の心の揺れ動きなどが印象深い。また、この作品も当時の庶民や貴族の生活様式を細部まで描いたり、パタリロみたいな女官(笑)の細やかな気遣いがさりげなく描かれていたり。今の日本人でも知らないか忘れてしまったような要素はたくさんあり、学校の古文で出て来る物語の世界を堅苦しくなく可視化している点で、参考にもできる。日本の歴史文化に興味のある外国人は一度みておいた方がいい。別途に解説があればなお良いだろうが。

 出したついでなので高畑さんとは関係ないが映画の話を続けよう。昨年『シン・ゴジラ』もやはりテレビで観た。日本を代表する𝐒𝐅映画として海外でも知られているようだが、私はゴジラ作品に関してはほとんど観たことが無く、中𝟏の時にテレビでやっていた『ゴジラ対ビオランテ』を観ただけ。『シン・ゴジラ』がそれ以来𝟐本目となった。

 当時閲覧していたツイッターのページでは、番組を見終わったあとに謎解きみたいなものを期待してネットを巡るようなことが書かれていたのだが、個人的な印象としては、特に謎がどうこうというものは印象に残らず、感想はただ一つ、「わりとよくある日本文化論だな」というものだった。未知に対する認識の甘さ、組織の縦割と責任の曖昧さ、憲法上の適正手続きを過剰にした報告&連絡&相談の連続による時間の浪費と効率の悪さ、そして現場は頑張っていますというお話。これも日本の組織文化を知るにはいい素材だと思うので、日本に興味のある外国人にはお勧めする。

 他に日本の組織文化を知るには良い、日本に興味のある外国人にはお勧めの映画があって、そのうち触れようと思っていたものが𝟏つある。今年の𝟏月だったか、東京銀座のある公立小学校が、制服をアルマーニ製のものに変えるということで物議をかも
していた。そのさい、学校長は「ふくいく
服育
」という言葉を使っている。

 この手の報道では絶対に行政側の問題点しか強調せず保護者側の実態は調査しないという報導行為がなされるので詳しいことはわからなかったが、背景としてちらりと、地元の、 学校に対する協力を無下むげ にするようなふるまいがあるかのように学校長が言っていた。それが服装の問題なのか行動の問題なのかははっきりしないが、「服装の乱れは心の乱れ」という古い価値観が関係している可能性もある。外野ではアルマーニであることや費用の件が問題になっていたが、アルマーニに関してはたまたまで、幾らか声をかけた中で応じてくれたのがアルマーニだけだったという話らしい。費用が𝟖万近くかかるという点に関しては公立でも中学や高校で制服に𝟏𝟎万かかる事例が以前からあり、今回の問題だけが特別ではない。制服だけが安くても部活を入れるとその制服や道具の費用で結局同じような、あるいはそれ以上の出費となるので、アルマーニと制服代に固執した報道をしていた人たちが問題なだけと考えてさしつかえない。

 一方、学校長が子供の頃からの服育の必要性を国際感覚と関連付けて語っていたが、これは何も関係が無い。制服が無い中で服装に問題を感じて制服を導入するわけではなく既に制服は存在していたようで、単にデザインを変えるだけのことであるし、小学生の段階で国際的なブランド服を着せたところでそれを意識するのは親や周囲の大人。子供はただの制服にしか思っていないだろう。それで大人になってからの服のセンスがよくなるわけではない。利点があるとすれば、小さい頃に当たり前の物として触れていると、ブランドに対して特別な感覚は無い、つまらない劣等感は持たないということ。それでも本場のヨーロッパでは大人になってある程度稼ぐようになってから手を出すものを、日本では学生が買っているとしてブランド物のバッグやマフラー等がやり玉にあげられた過去もあるし、かつて学校ではスカート丈を厳しく規制して、定規で長さを測る検査さえ行われていたこともある。「服育」という言葉が何を意図しているか、どういう背景なのかを真剣に問うた記者が皆無だったようなので、これらの点をどう考えるのかはよくわからない。

 その、「服育」も含めた日本の「生活指導」と呼ばれるものがどういうものかを知ることができる作品として、『ぼくらの七日間戦争』という映画が𝟏𝟗𝟖𝟖年﹦昭和𝟔𝟑年頃にあった。中学校の生徒が大人に反発して一泡吹かせようという話で、中盤以降は架空の話だが、序盤の学校での様子は現実と変わらない、今となっては当時の歴史を描いた貴重な場面とも言えるものになっている。全国すべての学校がやっていたわけではなかろうが、現実として存在していた指導方法ではあった。中にはもっと酷かったと思う人もいるかも知れない。朝、登校時間を過ぎると校門を閉める様子、ぎりぎりでかけこんでくる生徒がいる様子も描かれているが、こののち𝟏𝟗𝟗𝟎年﹦平成𝟐年に兵庫県立高校女子高生校門圧死事件が起こる。教師が閉めようとする校門に駆け込んできた生徒が挟まれて死亡した。そういう現実の情報も解説つきであればなおいいのだが。

 服育という造語の元になっている発想も映画の中に登場する。学校長の訓示に「知育・徳育・体育」という言葉が出て来る。元々はイギリスの𝐢𝐧𝐭𝐞𝐥𝐥𝐞𝐜𝐭𝐮𝐚𝐥 𝐞𝐝𝐮𝐜𝐚𝐭𝐢𝐨𝐧、𝐦𝐨𝐫𝐚𝐥 𝐞𝐝𝐮𝐜𝐚𝐭𝐢𝐨𝐧、𝐩𝐡𝐲𝐬𝐢𝐜𝐚𝐥 𝐞𝐝𝐮𝐜𝐚𝐭𝐢𝐨𝐧を訳したもので、明治維新以降の学校教育に導入されたものだったが、初代文部大臣森有礼が最初から富国強兵と結びつけて利用したものだから、実態はイギリスのそれとはかけ離れたものになり、のちの軍国主義教育へとつながっていく。その名残が戦後も延々と受け継がれ、日本の企業文化にも影響している。

 この他、映画には出てこなかったかもしれないが、挙手には角度が決められていて、分度器で測るなんてことが行われていたケースもある。子供どころか大人でもお辞儀の角度を分度器で測って徹底させるようなことをしている企業は、わりと最近までデパートでは存在した。今でもひょっとしたらやっているところはあるのかも知れない。しかし、そこまでの徹底にどの程度の意味があるのかは疑問で、現にデパートは業界そのものが今では斜陽産業となっているし、以前はあったエレベーター・ガールも結局機械化や経費削減で廃止されていったというのが現実だった。こういった様子も数ある映画作品のどこかしらにひょっとしたら紛れ込んでいるかも知れない。私は映画はほとんど観ないので詳しいことは他のサイトに任せるが。

 他に『魁‼男塾』も、パロディ化はしているがかつての日本文化を学ぶ入口としては使える面がある。しかしこれは日本語や英語との関係でまた別途に話題にする。
posted by Marimó Castellanouveau-Tabasco at 09:43| 教育 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする