2018年03月08日

ゑいのためとしてゐをするとなしたり⑤

 漢字は見ておぼえるにしろ、書いておぼえるにしろ、「字形を丸ごとおぼえる」という方法があるが、もう一つの漢字をおぼえる方法として、部首や基本パーツの組み合わせでとらえるという方法がある。すでに以前の記事で何度か触れているが、「避」なら「辶」と「辟」からなり、「辟」は「𡰪」と「辛」からなり、「𡰪」は「尸」と「口」からなっているととらえるもの。「避」で𝟏つの字として手が自然と動くほどに書きまくって理屈抜きにおぼえるという手段とは違い、意味をあらわす「意符」と、音をあらわす「音符」からなっているととらえるので、「避」という少し画数が多い漢字を目にしても、「辵:すすむ」と「辟:ヒ」という感覚になる。このとらえ方は、必ずしもすべてのパターンで機械的に当てはまるわけではないが、「辟」は通常[ヘキ]という音で、「壁」「癖」「璧」と共通する。さらには「僻」「劈」「廦」「憵」「擗」も[ヘキ]と読むなど、知らない漢字、初めて見る漢字でもある程度予想ができるようになる。この場合の「勘」「なんとなく」というのは、それなりの根拠がある「勘」「なんとなく」であって、全くの当てずっぽうとは違う。仮に間違えたとしても、「いい間違え方」といえる。間違え方一つ見ても、その人の実力を判断できることがあるが、情報処理力の低い人は「全部が合っているか、そうでないか」といった𝟎次元的思考で単純な正誤にこだわってささいな違いを客観的に区別するのが苦手な人が少なからずいるとは感じる。しかし、複数の要素の集合としてとらえることは、自分がおぼえるさいにも、他人の様子をみるにも役に立つ視点になってくる。おぼえ方そのものは自分に合っていると思う方法で行えばそれでいいが、やり方が複数あり、自分が好んでいるもの・選択しているものはあくまでその一つでしかないということは、早ければ小学校の高学年くらいから、遅くても中学・高校では何となくでも感じておいたほうがいいだろう。そして、自分に合っていない・うまくおぼえられないと感じたら、別のやり方も最低𝟑ヶ月くらいは試してみるといい。ただ、ここで一番問題になるのは教える側との関係だろう。自分が合っていない・他の方法を試してみたいと思っても、教える側が認めないと、特に子供の場合は何もできなくなってしまう。なので教える側もそういう選択肢や工夫を知る・許容するということを知る必要が出てくる。

 ちなみに私は第三の、構成要素の集合として把握する方法をメインにして漢字をおぼえた。もちろん日本で日常生活を送っている以上、目にしてその中でおぼえることもあったろうが、本を読むのが好きじゃないので読書を通しておぼえることはあまり無かった。また、記憶力は悪い方なので、「さぁ暗記しよう!」と意識的にながめているだけで頭に入ってしかも忘れないなんて器用なこともできない。そして学校の宿題では当然書かされるので書いておぼえた面も当然ある。基本字形は構成要素にバラしてもただの横棒・縦棒・斜線でしかないので限界がある。「為」のようにある程度複雑でも構成要素に分けたからといっておぼえやすくなるわけではないものもある。ただ、「部首とそれ已外の部分」という意識で書いたりおぼえたりすることはもう小学校𝟑年生のころから行っていた。試験で再試験になったりするほど困ったことはないが、毎回満点!というわけでもなく、また、学年の最初のころに習ったものであまり使っていない字などは忘れてしまったりする。なので最初のうちは万能ではないが、基本的な字形が頭に入ってくると、あとはその組み合わせでしかないので、字形に迷うということがどんどん無くなってくる。音もおよそ想像がつく。だから中学くらいになると、もう初めて見る漢字でも字形で新しくおぼえることが無くなって来て、どの字を当てるのか?ということだけ憶えておけばいい、何と書くかさえわかれば字形で間違うことはない状態になっていた。

 こういう、パーツの組み合わせとして認識する方法は知っている人にとっては当たり前の話になるが、どうも意外と知られていないのかな?と漢字の間違え方や、ある字を見て「難しい漢字」という印象を持つ人の捉え方を見てて思うことがある。外国人学習者の場合は特にこの種の視点に関する情報が少ないかも知れない。

 昔小学校の図書館には「〇〇のひみつ」といった漫画のシリーズ本が置いてあったりしたが、その中に『漢字のひみつ』という本もあった。そこでも漢字の基本的な構造については触れられていて、分けて捉える概念は学べるようになっている。私は小𝟐の時に読んだが、低学年でも読める程度の文章だったのだろう。現在では他にももっとわかりやすい解説本は出ているかも知れない。漠然と学ぶだけでなく並行して情報を仕入れていくことはお勧めする。すぐに字の記憶や点数に反映されるわけではないが、長期的には効率的になっていくので、一つの手法として知っておいてもいいと思う。

 個人的には他に、藤堂式と呼ばれる漢字の成り立ちが載った漢字一覧が𝟐冊に分かれて家に在ったので低学年の頃なんとなくペラペラめくってみたことはある。別にそれでおぼえようとかではなく、大きくなったらこんな字を習うのだな程度に。凸と凹というのがマークではなく𝟓画の漢字なんだと知ったのは確かその本だったと思うが、小学生で習う教育漢字には入っていないので、常用漢字が全て載っていたのか、何かの用例で入っていたのか。現物が今でも残っているのかさえはっきりおぼえていないのでよくわからない。

 藤堂式の他に下村式というものもあると教えてもらったので、漢字の成り立ちには複数の考え方があるらしいという多様性についても𝟖歳なりになんとなく認識していた。翌年、小𝟑になってから担任の先生が、毎日新しく習う漢字について、その下村式の漢字辞典から𝟏頁ずつコピーを配ってくれたが、そこには常に音訓や書き順、部首、成り立ちといった基本的なことが書かれていた。部首の意識はそれで継続的に触れて身についた面もあるし、私にとっては漢字をおぼえることよりもそこに載っていた成り立ち、つまり絵のようなものが徐々に漢字に変わって行く過程が面白くて、楷書の漢字よりも象形文字の方が好きだった。はっきりとした記憶は無いが、小𝟏か小𝟐の時点ですでに成り立ちに興味を持っていたらしいのは、小𝟏の秋の運動会の参加賞でもらった自由帳に、成り立ちをいくつか写した絵が残っていることでわかる。しかし、小𝟑以降はおぼえるべき漢字が年に𝟏𝟖𝟎以上あったはずで、𝟐日に𝟏字、休日を省くと実質𝟑日で𝟐字くらいのペースでおぼえないといけないことになっていたので、象形文字まで記憶するというのは私には無理だった。現在の指導要領では中学年が最も多く、𝟐𝟎𝟎字ずつとなっている。

 近年注目されているアクティヴ・ラーニングという言葉。詳しくはまた別途に話題にしようとは思っているが、その問題点・限界がここにも表れる。自発的に・積極的に学ぶとか楽しく学ぶとか言えば聞こえはいいが、象形文字はおぼえても試験の点数にはならない。おぼえるべき楷書の常用漢字をおぼえた上で象形文字もおぼえていれば「すごいね」ということになるが、象形文字だけおぼえて楷書の常用漢字は頭に入っていなければ「何やってるんだ」「余計なことするな」となる。結局、アクティヴにやるべき内容が決められている点ではパッシヴでしかない。

 個人的には書道を一年弱習っていたことがある。学校でも毎年「かきかた」の授業があった。中𝟏の書道の授業が学校では最後だったが、全て楷書で学校で習うような漢字を書かされた。宿題でも大量に書かされる。漢字の書き取りは退屈で好きではなかった。しかし、中学の文化祭で書道部の展示を見た際、甲骨文字や篆書もあったのが意外で印象に残っている。書道というと「学校でやる教科書の字か、エライ人が書くグニャグニャした字」くらいのイメージしかなかったので、甲骨文字や篆書が書かれているのをみて、「こういうのも書道なんだ」と良い発見になった。絵のような象形文字なら嫌いではなかったし、ハンコに使われている隸書や篆書のような複雑な字も、紙に書いて遊んだことがある。もし低学年のころ、そういう書体でも書いてよかったなら、退屈になることもなく書道ももうちょっと続けていたかも知れないと感じた。

 学校や書道教室での書道が、漢字を覚えるための追加の授業なのか、日本の伝統に触れる体験の時間なのか知らないが、今の時代となっては墨と筆と硯を使って何かをするという行為自体が特別な作業になっているので、何をするのかに関してはもっと選択肢があっても良いと思う。上手に字を書きたい・書けるべきというのも悪くはないが、好きな字形を好きな字体で書いてお絵描きのような感覚で親しむのもまた書道じゃなかろうか?

 一方、実用面では大人になってから筆に関わるケースで一番多いのは、小筆を使って名前や挨拶を書いたりすることで、大筆は一部祭事に関与する人已外はほとんど利用機会が無い。単なる体験コーナー、思い出づくりで終わってしまうよりは、同時に将来への拡張性ある教育をする方が効率はいいわけで、筆の種類や持ち方に関しても、時間の比重は一考の余地があるように思う。

 量が増えそうなので後半は「漢字をおぼえる」のとは少し違う話題をしたが、漢字をパーツに分けてとらえる話に関しては、さらに続ける。
posted by Marimó Castellanouveau-Tabasco at 23:45| 情報処理 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする