2017年07月05日

知識と情報は、更新出来なきゃ只のゴミ

 先週、ティラノサウルスの体を覆っていたのは羽毛かウロコかという点についてニュースで採り上げられていたのを見かけた。話題としては羽毛説が広がりをみせる中で、やはりウロコじゃないか?という新たな論文が提出されたというもの。そして番組キャスターが羽毛だったかも知れない話を聞いて失望した話をしていた。


 映画『ジュラシックパーク』に見られるような従来のウロコに覆われたティラノサウルスに馴染みのある人間にとって、羽毛に覆われたティラノサウルスという姿に違和感がある、それ以上に彼女にとっては勇ましく最強のティラノサウルスが実はもふもふ感たっぷりの姿だったことに、己のイメージと違うという反発を覚えていたらしい。更に、ウロコで覆われているティラノサウルスが載った本を甥っ子に贈ってしまったと。


 全身もふもふのティラノサウルスというのは、鶏やあるいはぬいぐるみのようなティラノサウルスをイメージしたのかも知れない。「もふもふ」という表現は個人的には21世紀以降耳にするようになった表現という印象があるが、ぬいぐるみのように柔らかで軽い反発力のあるような触感をあらわしている。従来の表現なら全身羽毛で覆われていた状態はフサフサと形容しているかと思う。


 ちょうど私のブログのプロフィール画像が「もふもふなティラノサウルス」のイメージに近いかも知れないが、そういった想定でデザインされたものかは知らない。中学のころ私に似ているとして誕生日に贈られたものだが、贈呈者は「ワニゴジラ」と言っていた。正式名称は不明。当時まだ恐竜が羽毛に覆われていたという説は耳にしたことがなかったが、特に違和感は無かった。


 私も多くの日本の子供同様、幼児期に恐竜への関心はあったが、記憶にある限り小学4年生まで。その後は偶にニュースや何かの番組で紹介されるのを見かける程度。当時のティラノサウルスはやはりウロコに覆われたゴツゴツした身体で描かれていた。


 しかし恐竜が羽毛で覆われていたらしいという話も21世紀以降だと思うが耳にしており、「へー」で終わっている。今回はまたその反対なので「どっちやねん」という印象ではあるが、別に全身が覆われていたと言えるほどの話でもなくて、あくまで一部にそれがうかがえる証拠が見つかった程度のようではある。場合によっては全身ゴツゴツでも全身もふもふでもなく腰ミノつけたフラダンサーみたいなことになっているかも知れない。当時のことはほとんど何も分かっておらず、わずかな化石の断片から想像するしかないのだから、話が揺れるのは不思議ではない。問題はそういった不確定要素の多い情報の処理が出来ていない点。


 この件は、入ってきた情報をどう扱うかという点では一般的だが、既に知っている情報や身に付けている動作・感覚と、同種ながら異なる方向にあるものに対する扱いという点で情報処理としては一歩踏み込んだものになる。更新とか更改、アップデート、修正、拡張、再定義、再解釈・・・言葉は色々あるが、状態としては一緒。そして、これらの作業に対して注意が要るのは、特定の表現や状態に対して自己の感情・思い入れを持ってはいけないという点。これは情報の更新や正確な分析に対して障碍になる。


 ただ、情報の分析や変更に対して無感情に処理する技術を身に付けることは大切な一方で、何らかの感情を持つこと自体は避けられない場合もあるし、何らかの感情を持っている人が少なからずいて、その人達の言動を理解する上で重要な機能でもある。データに表れた数字だけで話が済むジャンルばかりではないのが現実なので、例えば政治や経済や心理のようなジャンルで「多いから」と統計を印籠にして押し付けても物事は上手く進まない。営業や芸術表現のようなジャンルではむしろ感情の表現が重要になってくる。


 結局情報処理としては感情を理解する心と無感情に分析を行うことの両方が必要とされるわけだが、矛盾するものではないので、きっちりと場面を使い分けることが重要だろう。今回の場合で言えば、ティラノサウルスに最強の恐竜という理想を置いて、その「最強」という状態には柔らかさではなく固い皮膚のイメージを伴うという感情を持つ一方で、古生物としてのティラノサウルス・レクスがどのような状態で棲息していたのかを考える時にはそういった固定観念や自己の理想は一切排除して、あらゆる選択肢を可能性として持ちつつ、現状では堅いウロコの可能性と柔らかい羽毛で覆われている可能性が提出されているという事実を認知し、その整合性を考えたり理論的に考えられる可能性を検討したり、個人的に考える可能性を意見として整理してみたりする。その使い分け。ケジメと言っても良い。


 これが出来ないと他人の分析も誤まることになる。己の感情を相手に投影して、彼が好きだから賛成・嫌いだから反対、肩書がある人だから正しい・ないから間違っている、もふもふが嫌・ゴツゴツのウロコが好きだからウロコが正しいという結論になるよう都合の良い情報だけを貼り合わせていく、彼は堅い物に興味があるに違いない……といった少し条件が変わると全く分析の方向性が変わってしまうような不安定で根拠の弱い情報処理に陥ってしまう。以前言葉だけ挙げたが、他者のある行為に自己の好む特定の感情を結びつけて心意をはかる「ジョージの分析」や、先に結論を決めてそれに合うよう情報を貼り合わせていく「報導」といった行為がそれになる。これらの言葉についてはまた改めて採り上げる。


 ジョージの分析や報導行為について疑問を感じない情報処理力を身に着けて分析を誤る癖を育てないためにどうすれば良いかだが、これには年齢やその人の実力の段階に応じた分類が必要だと思う。何故なら、感情を抱くことや他人の感情を想定することも重要なことではあるので、両立をはかるのなら一色に染めてしまうのではなくどちらかを失わないように別の能力を育てていかないといけないから。


 どちらが先かといえば、感情が先だろう。人間はほっといても感情的になるし、物心付く前から何かしらの好みを反応としてみせる。これが原点。だから、感情を排した情報処理はあとから身につけていく技術になる。個人的には高1くらいまで、特に中学生以下なら感情的にどう思うか?どう感じるかを優先した方が良いと感じる。こういった感情は直感・勘を鍛えることにもなる。勘は非論理的な部分も含まれるが、現状では世の中の複雑な出来事をまだ完全に理論で説明したり機械で分析したりは出来ない、あるいは出来たとしても費用がかさむ・時間がかかるので現実的ではない。となると、人間の勘に頼らざるを得ない場面はどうしても出て来る。当然、勘であっても精度は高いに越したことはない。AIやビッグデータが近年の流行語になったが、この点は気をつけないといけない。気象予報はビッグデータの言葉が流行り始める遥か以前から現在および過去の膨大なデータを集めて処理しているが、それでも人間による補正は加えているし、スーパーコンピュータとビッグデータを駆使してもいまだに台風の予想進路は外れることがある。天気予報の的中率は8割台で推移してそれほど変わっていない。こんな日常的で些細なことも頭に置いて、感情的な興奮に流されることもなければ、ビッグデータやアルファGOが突然ニュースでトピックになっても、それに流されることもないし、将来ビッグデータやAIがからんだ大きな失態が事件として注目されてもそれで一気に熱が冷めるような感情的ゆらぎも起こらない。


 ではいつごろから感情を排した分析を身に付けるのが良いのか?だが、別に小学生の頃からやっても悪いわけではない。ただ、無感情な分析が出来たとしてそれをことさらに強調して褒め、感情よりも優先して行動を埋め尽くしてしまうのは心の発達には好くないだろう。3歳にしか感じられないこと、7歳だからわかること、10歳なりに考えたこと、14歳特有の感情……そういうのはその年齢にしかないこと。経験せずに大人になってあとからいわゆる「厨二病」と言われるような思春期特有の感情を強調されると社会での意思疎通に問題も出てくる。


 かといっていつまでも子供の頃の感情的行動・ジョージの分析を基盤にしていると、本格的な情報処理は出来ない。高校生後半くらいから、遅くとも大学では感情を排した分析や情報処理にも慣れる必要があると考える。感情を切り離すのは最初は大変だし、出来たと思っても出来ていないこともある。情緒豊かに育った人ほど難易度は高いだろう。でもその山を超えることが出来たら、使い分けは造作もないことだし、日常・非日常含めてあらゆる場面で感情を排した分析は可能になる。そして感情も失わないままでいられる。全員が出来るようになるのかは分からないが、リアルタイムで個人的感情と非感情的な分析を同時に頭の中で思い浮かべながら行動に当たることも可能になる。これは様々な思考が交錯して制御不能な錯乱状態とは違って、完全に制御下にあるもの。パソコンで言えば2つのウィンドウを並べて同じデータで違う処理を行っているようなもの。昔あったブラウザークラッシャーや初期のワーム感染のように勝手にウィンドウが幾つも立ち上がったりファイルが無限に増殖して収集がつかない状態ではない。


 では、どうやって感情を排した情報処理を身に付けるかだが、到達目標も含めて一律には言えないし言ってはいけないとも感じる。これは今回のテーマに限らず教育政策論全般に言えることだが、現状に問題を感じて指摘したり、何か新しい手法を提案する際は、最低でも3つの層は念頭においておく必要がある。すなわち①放っておいても学ぶ・出来る層。②機会を与えれば学ぶ・できるようになるが、機会を与えなければ学ばない・出来るようにならない層。③何をやっても学ばない・出来ない層がそれに当たる。一般にエリート教育や才能教育、成果主義での教育論は①の層を前提にしている。一方、障碍者教育や落ちこぼれ対策などは③を前提にしていることが多い。共通するのは、一見正論に見えてもそれは特定の層に対して適しているだけで、必ずしも全体をカバーするものではないことと、②の存在が放置されてしまうこと。やれば出来るようになる②の層が放置されることで③に近附いていくのなら、いくら③を念頭においた対策であっても解決にはならないし、①の層にいる人が不幸になってしまう。②であっても①であっても特定の層だけを対象にすると他が不幸になるのはやはり同じ。だから人材育成に当たっては、必ず3つの視点で過不足を考慮し、採用や補足は検討して欲しい。現場の人間は①~③全ての層に対応しないといけないのが通常だから、限られた対象だけを想定しても解決にならない。


 この視点が先に書いた、「その人の実力の段階に応じた分類が必要」という話になる。大きな前提になるのは国語力・読解力。感情に流されてしまいやすい情緒的文言・挑発的文言以外の情報や、趣旨以外の部分でさえ情報を適切に処理出来ない段階では、まずその処理力を上げる事が重要になる。もちろんこれ自体も終わりはない。文章の難易度はいくらでも上げられるので学生時代に国語が得意だったとか学校の試験で100点取った、偏差値は高かった、良い大学に合格したから程度で自信を持たれても困る。


 感情を伴いやすい内容に関しては最低限の読解力が身についた上で扱うことになるが、何かしらの感情を抱いたり他者の感情を理解するのが難しい人がいるのも現実で、そういった場合は感情を排した処理には元々適性があるだろう。なので適切に処理出来ていることを確認しつつ、感情を伴った言動に対する理解、完全な理解は出来なくても常に存在を意識させることが重要になる。良い面を伸ばせと盛んに言われるが、どんなに情報処理に優れていても感情が理解出来ない人間がそれなりの影響力を持ってしまうと、間接的な大量殺人を行う人材を育てることになりかねない危険性をはらんでいることは忘れてはならない。過ぎたるは及ばざるがごとしである。


 その逆として、自己の感情を抑えるのが難しい人もいる。障碍を頭に思い浮かべるような水準や暴力的な人は分かりやすいが、個人的に感じるのは、一見普通に見え、最低限の読解力はある、本をよく読むという人でも、意外とこの情報処理に難があるのかなと感じる人がいる。それがしかるべき訓練・経験を経ずに長い時間が経過して修正が困難になってしまっているのか、本質的に不可能な障碍の一種なのかはまだ何とも言えない。言えるのは、読書家であることと読解力の高さは必ずしも一致しないようだということだけ。興味のある人は研究してみて欲しい。


 機会を与えれば学ぶ・伸びる層は、余裕があればどんどん機会を与えてやるべきだが、「思い出づくり」に終わらないようにすることが重要になる。つまり、単発でこういう処理の方法がある、感情を抜きに捉えてみようと紹介して経験してみてもほとんどの人は何を言ってるのかよく分からない・出来ているのか出来ていないのか実感が無い・やってはみたけど身についていないということになりかねない。各回は短時間、短い文章や表現でも構わないから継続的に機会を設けることが重要になる。


 既に高い読解力を持っており、分析力や表現力も平均層より高い水準にある人に関しては、更に要求の水準を上げる、それから対象となるジャンルを幅広くすることが重要になる。情報・情報処理はあらゆるものが対象となる。学校や資格の試験に出てくるような体裁の整ったデータや評論、小説に限ったものではない。雑談でもプレゼンでも絵画でも道端で目にする光景でも全てにおいて言えること。試験に出てくるものにだけ対応出来てもそれは分析力が高い・情報処理力があるとは言えない。必要な情報は常に体裁が整った形で提供されるとも限らない。混沌とした状態からでも自分で抽出し適切な形に体裁を整えることが出来てしかるべき。だから成績優秀で自信を持ってしまってる人には天狗にならないよう、鼻っ柱を折っておくのも必要なこと。


 感情も大切という点で順序としては、先に理屈抜きに直感的に感じたことを書き出す・まとめる作業はして欲しい。理論的分析は対象さえ用意できればあとからでも可能なので。感情的なものは意外と瞬間瞬間で少しずつ違っていたりするし、ちょっと時間が経つと忘れてしまったりする。今は記録媒体も豊富なので、感情を記録に残しつつ別人がその場面を別途に客観的に記録してあとで見て改めて考えることもたやすい。注意点としては、何も感じなかったということも1つの感情であるので、否定をしないこと。無理に他人の受け売りな表現を並べたり、評価が得られそうな体裁で表現する必要もない。逆に感情的に見えない表現であっても本人にとってはそれが感情を表現する適した手段と感じているのならそれも否定してはいけない。特定の感情表現を「素直」、それ以外を「心を開いていない」として徹底的に否定する指導がしばしば行われているが、ただの心理的虐待で、指導者の側が感情を処理出来ていない・分析力が低いことを物語っている。「驚いた」「びっくらこいた」「嬉しい!」「望外の結果」「南無三」……本人が素直に出た言葉ならなんでもかまわない。言葉より絵や音や動きで表現する方が楽な人もいるだろう。


 感情を記録したらそれはもう横へ置いておく。そこから先は一切それにとらわれてはいけない。純粋にそこに用意された情報だけに従う。感情に流されない分析が出来ているかどうかは、しかるべき実力を持った指導者がみてやることになる。そこまでは通常の採点と変わらないが、重要なのは、出来ていなければ修正をする点。これをやらないと思い出づくりに終わってしまう。他人の書いた正解・優秀答案を暗記しても意味はないし、それで点数を取って自信を持ってしまった人材ほど迷惑なものはない。学歴はあっても情報処理力が低い人・実力はあるけど個性が無い人はこうして生まれる。あくまで自分で行った分析を対象に、最後まで責任持って仕上げさせること、自分の言葉で書くこと。なので指導者と時間がどうしても必要になる。


 高等教育では本来こういった経験を、専攻ジャンルや自身の研究課題を通してさせているはずなのだが、実際は行っていないか不十分な状態になっていることが少なくないよう。高校生後半くらいからと書いたが、大卒でこれが出来ていないのはむしろ落毀れの部類に入ると考えていい。大学入試時点での成績が好かった点ではスーパー高卒かも知れないが、卒業した時点では名許り大卒とも言える。個人的にはこの点でしっかりと実力が身につけられたら、大学へ行く必要は無いんじゃないかとも感じるくらいで、あとは個人個人が必要に応じて自力で能力を高めていけば良い。大学はあくまで学問研究の一端を通して情報処理を経験するだけで、みんなが学問の研究者になるわけじゃないのだから、各種場面でそれを自分で応用していくことになる。専攻ジャンルの知識は他で役に立つか分からないが、基盤となる情報処理力は身につけさえすればそれが経営であれ物づくりであれ企画であれ、本質的に必要とされる処理は一緒なので役に立つ。


 100%感情を排するというのは難しい。極限を目指せば不可能とも言える。自分が出来ていても複数の人間が絡んでくると他人の感情の介入に影響されることもある。しかしそれをやらないのと近づこうとするのとでは違ってくるし、複雑な情報を紐解く際や緊急時の情報処理で有利になってくるので、機会があれば体験しておいて欲しい。個人的には様々なものから少しずつ吸収して身につけていったので、「○○を読め」とか「××に影響を受けました」、「△△を体験したことで自分は変わりました」と一言で紹介しにくいのだが、比較的比重が大きかったのは大学へ入る前、高3の夏にちょっとした経験をしたことで、ジャンルを問わずその後の情報処理に非常に役に立っていると感じている。なので高校段階でも十分に可能だし、しかるべき環境があれば大学に入る機会がなくても可能だと思う。


 最後に、感情に左右されない情報処理をするためのコツとして一つ心構えを紹介しておくと、「知識と情報は、更新出来なきゃただのゴミ」というスタンスだと思う。学校に通う年代、あるいは大人になってからでも初めてのものを学ぶ・経験する段階では知識や情報を一方的に仕入れることが中心になるが、それが全てではない。全てではないというのは習っていないものもあるという横への広がりと同時に、過去も未来も同じではないという前後の広がりもあるということ。この意識を常に持っておくと、覚えたことや変わってしまったこと自体に心を揺さぶられることは少なくなる。その上で、何が違っているのかを冷静に見ることが可能になる。理想的には「ただし、更新前の情報もできれば残しておけ」ということも追加しておきたい。変わってしまう前の情報が必要になる場合もあるので。

posted by Marimó Castellanouveau-Tabasco at 09:42| 情報処理 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする