2017年10月16日

「共感する」ということの情報処理

 単に書くこと自体は別に難しいことじゃないので、機会があるうちに書き溜めしておこうか。

 昨日普段読んでいるブログについて話題にしたが、その前に何か面白そうなブログは無いかグーグルで探していた。リンクが紹介されてたどっていくとか、何か探している過程で出くわすという場合と違って、漠然と「新しく読むブログや記事を探す」となると意外と難しい。まずもって検索のキーワードに困る。「ブログ」と入れてもブログサービスのそのものやブログの書き方、最近だと広告収入に関する記事などがよく引っ掛かる。

 アフィリエイト広告をブログに貼り付ける行為は今使っているシーサーブログでも利用可能なのでやってみてもいいかも知れないが、面倒で全然やっていない。よほどの人気サイトか、炎上を狙って過激なことを書くことで人を集めるサイトでない限り大した収入にはならないと思う。閲覧𝟏回で𝟎․𝟓円が𝟓𝟎𝟎𝟎円以上で初めて現金化とか、商品購入に結びついて初めて数%還元とかそういった水準だろう。資金があればどこかへ行って何かを書くなんてこともできるかも知れないが、それほどの額を寄付する人がそうそういるとも思えない。そもそも私の書く内容は大勢の人に広く読まれることを前提とはしていないし、言語や字数や文体から考えても必然的に少数になる。仮にノーベル賞を獲るくらい有名になったとしても、継続的な閲覧数はそこらの炎上商法に及ばないと思う。しかし荒唐無稽な話は書いていないので、中身が適用される先は必ず存在しており、必要とする・必要とするべき立場の人が必ずいる内容ではある。この点では数の大小は問題にならないし、するべきでもない。今は「共感」という言葉によって数が多い方が重要な情報・内容のように主張する・認識する人が以前より多いと感じるが、これ自体が罠なので気を附けた方が良い。仕掛け人の考える常識にしろ扱うデータにしろ学んでいる知識・学問にせよ、世の中では少数派の部類だから。それに専門性が高まるということは汎用性が薄まるのだから、自然と少数派になる。専門家や経営者やリーダーは少数、場合によっては一人。彼等にとって必要な情報や視点、考え方に共感が多くなる可能性は少ない。共感絶対主義ではやっていけない。

 せっかくなので「共感」の範囲についてでも話題にしておこうか。「共感する」と言われているのはたいがい、自分の好む視点・内容と比較して他者に共通点を見出し好感を持つということのようだが、「同じ」「同じでない」の二択で考える𝟎次元的思考の人と、「同じ」の範囲の違いを見出したり、基準を「同じ」におくか「同じでない」に置くかの違いを考慮したり、時間的な推移を考慮に入れるか否かといった多次元的思考をする人では、同じ好みを持っていても反応の仕方はかなり異なってくる。

 𝟎次元的思考をするドットランダーは簡単。例は何にしようか?字を読むことの好き嫌いの話を出したからそれでいこう。「趣味は?」で「読書が好き」とする。ドットランダーなら「読書好き?」と質問して「好き」と返って来るか否かでもう共感の有無が決まる。問題はこの時ドットランダーの脳内で一括りにされる「共感」情報の範囲。𝟎次元思考をする癖をつけると情報処理力に限界が生まれてしまう上にデマの発生源になりやすい。「読書」という行為がどこまで共通しているのかは、「好き」か否かの𝟐択ではわからないので。

 年に何冊本を読むか?という調査はたまに行われて、若者の活字離れといった話題に繋がる記事は𝟏〜𝟐年に𝟏回くらいは目にしている気もするが、全く読まない人はともかく、「読む」人でも数は違う。月に𝟏冊程度の人も入れば、週に𝟏冊程度の人もいる。年単位で考えると𝟏𝟐冊か𝟓𝟎冊かくらい違う。𝟏𝟎𝟎冊𝟏𝟓𝟎冊読む人もいるが、そうなると週に𝟐〜𝟑冊というペースになる。「私は読書が好き」と思っている人の「読書」の想定範囲が量に関してだけでもかなり差が出て来る。

 冊数で比べる場合、𝟏冊辺りのページ数は問題にされない。𝟏冊𝟐𝟎𝟎ページの本もあれば𝟓𝟎𝟎ページの本もある。𝟐𝟎ページほどの薄い冊子もあろう。文庫本なら𝟏𝟎冊に分冊されていても、全集だったら𝟏冊に収まってしまう場合もある。「本𝟏𝟎冊読みました」が同じ量かはわからない。これは𝟏ページあたりの字数でも同じことが言える。絵図の多い本、字の大きい本もあれば、活字で埋め尽くされた本、字の小さい本もある。そういえば教科書の厚みのからくりについての話はまだここには上げてなかった。次回。

 こうなってくると「読書する」「年に𝟏𝟎冊は読む」という条件が同じでも、実態がどの程度同じかはまた別に判断しないといけない。そして「同じであることに共感を持つ」という人の場合、「読書する」ことに共感するのか、「年に𝟏𝟎冊」に共感するのか、はたまた「本の内容」に共感するのかが異なってくる可能性がある。そして、共感するか否かを判断するさい、そこまで考えて判断している多次元的思考のマルチランダーもいれば、単に好きか否かしか考えていないドットランダーもいる。共感というのは言うほど簡単な話ではない。そして、ドットランダーの場合は最初に共感する:好感を持っても、あとになってから違いを感じ始めて共感しない:やっぱり違ったとなる可能性がある。一方でマルチランダーの場合は最初から想定しているのでその点での相違は起こりにくい。恋愛に例えて
「好きなタイプは?」
「読書が好きな人」
で、読書好きを無作為にあてがうとどうなるか?というと展開は想像できるだろうし、簡単な話に思えるが、こういういった情報処理が出来ない大人は意外と多い。これが面接試験での質問だと考えてみたらわかること。そしてこれは統計や心理学の問題点でもある。調査をする時に分岐を想定していないと、世の中の全ての人間が質問項目以外の点で同質であるという大前提になってしまうから。つまり読書が好きか嫌いか、嫌いな人は𝟏冊も読まない、好きな人は年𝟏𝟎𝟎冊読む、で固定されてしまっているのと変わらない。すると、好きではないが𝟏冊くらいは読むという人や、好きだけどせいぜい𝟏𝟎冊くらいという人には現実的には無意味な話になってくる。適性検査や相性テストをやっても、大前提が当たっていないので小前提を幾ら変えても当たらないということになる。

 ちょうど最近ノーベル経済学賞で、心理学を取り入れた行動経済学に関係した人物が受賞したのでしばらく注目されるかも知れないが、こういった根本的な欠陥があるので、話半分に見聞きしておいた方が良い。以前「脳科学界のギレン・ザビ」で話題にした通行方法の違いと同じような欠陥も当てはまる。人は思いがけなく得た収入は散財してもかまわないと考えるのに、働いて毎月得た収入は大事に使おうとする……らしい。本当だろうか?日本では景気回復策として様々な政策が打たれ、しばしばバラマキと非難もされた。しかし実際はデフレへとつき進んで行った。その時行われた政策に、給付金や地域振興券というものがあったが、思いがけない臨時収入だったわりにその分現金が貯蓄に回っただけでもあった。少々給料やボーナスが上がっても貯蓄に回ってしまったり、団塊大量退職を迎えて退職金という形で高額所得者が増えても、その増額分全てが必ずしも消費に回っているわけでもなかった。リーマンショック前は、アメリカ人は借金してでも消費すると紹介されたこともあったが、日本では元々そういう習慣は言われていない。宝くじで一等を当てた人に対するアンケートでさえ、ある程度は使う一方で、貯蓄に回す回答が出ている。私が今回受賞のニュースで解説をしている人の話を耳にしながら直感的に感じたのはそういった過去の実態だった。世界の大部分はたしかに右側通行かもしれないが、左側通行が常識の国もある。なのにこの人は人間が右側通行したくなる動物だと言ってるようなもんじゃないか?ということ。

 理由は色々あろう。歴史的・文化的な違い、宗教観の違いといった過去から来るものもあるかも知れない。江戸時代は質素倹約が言われたし、軍国主義の過程でも大戦末期は「贅沢は敵だ」といわれた。実際に物の無い時代を体験した世代も多い。農業は博打みたいなところがあって、しかも𝟏年に𝟏回しか結果が出ない。春に苗を育て始めて𝟗月まで順調でも収穫前に台風が来て全てが駄目になってしまう場合もある。最近新燃岳が噴火して火山灰が収穫前の田んぼに降り注いでいたが、そんないつ噴火するかもわからない突発事態だって起こる。地震や津波もそうだろう。火災や盗難もあろう。収穫出来なかったら半年間何もしていなかったのと同じことになり、冬が越せない。国民の𝟗割近くがそういう環境で𝟏𝟎𝟎𝟎年以上生活して、ほんの𝟏𝟎𝟎年前でさえまだ大多数がそうだった。飢饉や災害に備えて集落単位で貯蓄をすることは江戸時代にだって既に行われている。今でも行政や企業で内部留保や資金のプールが行われて、時に違法とされて事件化もしているが、用途は必ずしも私利私欲や贅沢散財ではなく、部署や組織単位の保険・貯金のような性格・目的で積み立てられていることがしばしばある。

 他にも遺伝的な性向として慎重な性格と大胆な性格というのがある。これは動物にも見られるくらい古いタイプの違いなので、民族的傾向に関係しているかも知れない。行動経済学はこういった要素を全て想定に入れた上で世界全体や人類全体の普遍性を謳っているのだろうか?「多いから」でゴリ押ししても、母数が多いと無視が出来なくなって来る。左側通行の国に限っても数億人のビッグデータになると以前触れたように、𝟔𝟎億の𝟏﹪でも𝟔𝟎𝟎𝟎万人。それが特定の地域に偏っていた場合は例外で済まされなくなってくる。

 なお、内向き外向きの議論に関しても、長子単独相続が絶対とされたノルマン人の文化では、次男以下が必然的に外地へ出ることになり、北海~地中海貿易の交易ルート構築に貢献した歴史的経緯があったりする。言い方を変えれば長子は外へ出ていない。大航海時代にしても、純粋な冒険心というよりは経済的利益が前提だし、王侯貴族などの資本家自体はお金の融通󠄃と許認可権を行使しているだけで、別にその場を動いてはいない。𝟎次元的発想だとそういった面に発想が及ばず、共感できないものをただ非難し排除しようとするだけの発想になる危険がある。また、自分たちに身近な習慣を当然・普遍として宣伝したり強制したりする文化的ホロコーストは「毎度のパターン」なので情報処理上注意がいる。短期的な展開に終わる可能性があるので。日本のように独立した文化圏にありながら文明上の発達もそれなりに遂げていた歴史を持つ環境ではこういったことを理屈で考えるまでもなく生活実感として、直感的に違和感として持てる優位な位置にあるので、「みんなと違う」「ガラパゴス」とビクビク怯えて、仮りることの出来る虎の威や錦の御旗を探すよりは、違いを楽しんで冷静に見つめることの方が生産的で長期的には強い。

 「共感」について考える視点は、道徳か現代文の授業のような話だが、これも視点次第で世界史にも日本史にも政治・経済にも生物にもなる。

posted by Marimó Castellanouveau-Tabasco at 00:00| 情報処理 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする