2018年08月22日

ジョージの分析

 せっかくなのでいいかげん話題わだいにしておこう。「ジョージの分析ぶんせき」「可𪜄かふか行𧗩こうふこう欲𠁓よくふよく」「ハーディの論証ろんしょう」はわたし独自どくじ使つかっている表現ひょうげんなので検索けんさくをしてもほかて来ないだろう。𝟐ふたつは元々もともと意図いとてきつくした言葉ことばではなく、あるときかんじたことがその他の話題わだいをする中でも通用つうようすることおおく、結果けっかてき愛称あいしょうのようなかたち出来でき上がっていったもので、𝟏ひとつは以前いぜんからかんじていたこと一度いちどしたさい使つかったたとえから出来でき上がった表現ひょうげん。いずれも、ひと情報じょうほう処理力しょりりょくかんがえるときもっと簡単かんたん判別はんべつ法とかんじて便利べんり個人こじんてきにはよく使つかっている。多数たすう専門せんもんてき要素ようそ複雑ふくざつ処理しょりするまでもなくここでかるひとかるので。

 まずは「ジョージの分析ぶんせき」についていてみる。定義ていぎかんしてはよこ語注欄ごちゅうらん

ある行為こうい結果けっかを、それをもたらしたひと感情かんじょうこのみによる動機どうきにのみ結びつけてかんがえること。幼児ようじけアニメ『おさるのジョージ』由来ゆらい


としてみた。定義ていぎくというのは頭を使つか作業さぎょうで、自分じぶんわかっていても言葉ことば一般いっぱんするとなるとけっこうむずかしい。普遍性ふへんせい要求ようきゅうされるので、そのかれた言葉ことばでいつ如何いかなる場合ばあいにも適用てきようできなければいけない。例外れいがいゆるさない。例外れいがいがある場合ばあい除外じょがい項目こうもくとして宣言せんげんしておかないといけない。たいして普遍性ふへんせい主張しゅちょうする内容ないようへの𢱧判ひはん簡単かんたんで、𝟏ひとつでも矛盾むじゅんする事例じれい要素ようそを見つけせばいい。野球やきゅうえば、完全試合かんぜんじあいをしないと勝利しょうりとはみとめられないチームと、四死球ししきゅうり逃げでもとにかく一塁いちるいに出たら勝利しょうりみとめられるチームが対戦たいせんしているようなもの。完璧かんぺき定義ていぎつくるには自己じこ𢱧判ひはん力がもとめられる。その分、完璧かんぺき定義ていぎでは穴をさがす側が物凄ものすご苦労くろういられることになる。現状げんじょう、ジョージの分析ぶんせき定義ていぎわたしの頭にある感覚かんかく完全かんぜん再現さいげんしたものなのかはよくわからない。そのうちバグが見つかれば改善かいぜんする必要ひつようるかもれない。プログラミング教育きょういくというはなしているが、定義ていぎについてはコンピューター・プログラミングでも重要じゅうようはなしになる。数学すうがくはもちろん、国語こくごでも理科りかでも社会しゃかいでも、内容ないよう高度こうどになるほど避けてはとおれないはなし

 『おさるのジョージ』はアメリカの❝𝐂𝐔𝐑𝐈𝐎𝐔𝐒キュアリアス𝐆𝐄𝐎𝐑𝐆𝐄ジョージ❞という作品さくひん日本語にほんご版。元々もともと絵本えほんで、『ひとまねこざるときいろいぼうし』として前世紀ぜんせいきから出版しゅっぱんされている。わたし幼少期ようしょうきしたしんだ。

 アニメばんは𝟐𝟎𝟎𝟔ねん平成へいせい𝟏𝟖ねんから𝐄イーテレ、むかしでいう教育きょういくテレビで放送ほうそうはじまったらしい。現在げんざい地上波ちじょうはアニメの中で視聴率しちょうりつもっとたか部類ぶるいはい番組ばんぐみのようで、再放送さいほうそう何度なんどかえしている。わたしったのは𝟐𝟎𝟎𝟗ねん平成へいせい𝟐𝟏ねん。たまたまあさテレヴィのチャンネルをえていたらはいり、なつかしいものがアニメされているとなんとなく見始みはじめたのがきっかけ。

 詳細しょうさい設定せっていがあるのからないが、主人公しゅじんこう子供こどもさる。しかし人間にんげん言葉ことば感情かんじょうをある程度ていど理解りかいし、会話かいわのようなこともできる特殊とくしゅさるで、実質じっしつ人間にんげん幼児ようじ相当そうとうする。実際じっさいのところ、𝟑歳くらいまでなら人間にんげんいぬさる知能ちのうたいしてわらないとされるので、ひと意思いし疎通そつうがある程度ていどはかれるさるというのはそれよりすこうえ園児えんじ水準すいじゅんかんがえていいだろう。ぬし黄色きいろ帽子ぼうし大切たいせつにし、いつも黄色きいろふくかためるおじさん。しばしば博物館はくぶつかん学芸員がくげいいん手伝てつだいをしていたり、たまに本をしたりしてなに本業ほんぎょうなのかはっきりしないが、どうも芸術家げいじゅつかのよう。それもかなり裕福ゆうふくで、親戚しんせきはイギリス貴族きぞく自身じしんもニューヨークの街中まちなか高級こうきゅうマンションを自宅じたくち、郊外こうがい別荘べっそうっている。わり勘違かんちがいや物忘ものわすれや混乱こんらんおおく、漫画まんがのキャラクターとかんがえればめずらしくはないものの現実げんじつてきかんがえると注意ちゅうい欠陥けっかん多動たどう障碍しょうがい傾向けいこうに見えなくもない。しかし非常ひじょう寛容かんようひとで、いつも悪戯いたずらをして物事ものごとまわすジョージをおこことはほとんどい。すべあきらめるか前向まえむきにとらえて対処たいしょする。そしてジョージにはどうして駄目だめなのかやどういう代替案だいたいあんがあるのかを言葉ことば説明せつめいする。これは周囲しゅうい登場とうじょう人物じんぶつにもある程度ていど共通きょうつうする。それでもごくまれにおこことがあるので、偶然ぐうぜん目にしておじさんがおこっている場面ばめん出会であえたら幸運こううんだとおもった方がいだろう。ジョージの行動こうどうがきっかけで警察けいさつ指名しめい手配犯てはいはんあつかいされたときはさすがに激怒げきどしていた(笑)

 「ジョージの分析ぶんせき」という言葉ことばの元になったおはなしはシーズン𝟏第𝟏𝟕信号しんごうをまもろう𝐂𝐮𝐫𝐢𝐨𝐬キュアリアス𝐆𝐞𝐨𝐫𝐠𝐞ジョージ𝐒𝐞𝐞𝐬スィーズ𝐭𝐡𝐞𝐋𝐢𝐠𝐡𝐭ライトゥ」になる。本放送ほんほうそうは𝟐𝟎𝟎𝟔ねん平成へいせい𝟏𝟖ねん𝟏𝟎月じゅうがつ𝟏𝟖日じゅうはちにちらしいが、わたしが見たのはどうも𝟐𝟎𝟎𝟗ねん平成へいせい𝟐𝟏ねん𝟔月ろくがつ𝟐𝟕日にじゅうしちにちだったとみられる。その放送ほうそうときいたのではなく、𝟕月しちがつ𝟏𝟓日じゅうごにちに「百聞ひゃくぶん一見いっけんかず」という言葉ことば評価ひょうかについていたさい、ジョージのはなしたとえにしており、それが日記にっきの中で最古さいこ登場とうじょうこと直近ちょっきんくだん内容ないよう放送ほうそうされていることから推定すいていできたにぎない。「ジョージの分析ぶんせき」というまわしでは𝟐𝟎𝟏𝟐ねん平成へいせい𝟐𝟒ねんから見られるが、一時期いちじき保存ほぞんのトラブルで日記にっきのデータがえたことがあったためすくなくともそれ以降いこう確実かくじつとしかえない。

 はなし内容ないよう以下いかとおり。ある日ジョージはおじさんにれられて田舎いなか別荘べっそうくるまかう。途中とちゅう道端みちばた作業さぎょうをしている様子ようすを見かけるが、一瞬いっしゅんだったのでなにかわからずじまい。興味きょうみったジョージは別荘べっそういたあと、ひとりで現場げんばく。そこではり合いの栗鼠リス:ジャンピーが道路どうろ反対側はんたいがわちているあつめ、びたえだわたって道路どうろはさんだ反対側はんたいがわうつるということかえしていた。しかし、作業員さぎょういん信号機しんごうき設置せっちしたさい、運用うんよう邪魔じゃまかんがえたえだったことから、ジャンピーは地上ちじょうから道路どうろ横断おうだんせざるをなくなる。かかえてくるま道路どうろ横断おうだんすること四苦八苦しくはっくしている様子ようすたジョージは、どうしたら安全あんぜんもどれるかをかんがえながら様子ようす観察かんさつする。

 信号しんごうあかになったときくるままった。その様子ようすを見てジョージはかんがえる。

みんなあか大好だいすきなんだ。くるまめてまでている。あかきなひとみどりきらい。みどりわった途端とたん、みーんな行っちゃう。信号しんごう黄色きいろわると、みんなそこそこきなのか、スピードをとしてちらっと見ていく。信号しんごうはしょっちゅうわります。これじゃきないろをゆっくりたのしめないんじゃないかなぁ?そうだ、もっとみんなに信号しんごうたのしんでもーらお。


 そのジョージはあかみどり色紙いろがみって信号機しんごうきり、𝐓字路ティーじろあかだけ;だけ;みどりだけという信号しんごうつくる。すると、ずっとみどりことよろこんで通過つうかする自転車じてんしゃ、ずっとあかにならないことよろこんでとおぎるくるまくるまめてあかつづける大行列ぎょうれつができてジョージは満足まんぞく

 ジャンピーは結局けっきょくわたれなくなり、赤信号あかしんごうまっている人達ひとたちもイライラしはじめ、そのうち警察けいさつたりもしてこのあとジョージは信号機しんごうき役割やくわりまなんだり、ジャンピーがふたた道路どうろ簡単かんたんわたれるよう解決かいけつしてもらったり、信号機しんごうき設置せっち場所ばしょ手違てちがいということ撤去てっきょされたりするが、それは関係かんけいいので割愛かつあいする。重要じゅうようなのはジョージが信号機しんごうき変化へんかくるま行動こうどう観察かんさつしてなにかんがえたのか?ということ

赤信号あかしんごうまるのはあかきだから。みどりとおぎてくのはみどりきらいだから。


と、行為こうい根拠こんきょきらいの感情かんじょういている。これがちいさな子供こどもかんがえたことだとすると微笑ほほえましいはなしで、むしろ自分じぶん現場げんばに行ってだれにもおそわらず観察かんさつによってひとつの結論けつろんみちびしたてん評価ひょうかできる。たとえ間違まちがっていたとしても、なにかんがえずに正解せいかいおしまれたひとよりはるかにすぐれている。しかし、この発想はっそう大人おとなになってもまだつづけている場合ばあいたん情報じょうほう処理力しょりりょくひくいだけとしかえない。まして検証けんしょうずに最初さいしょおもいついたその感情かんじょう起源きげんせつ結論けつろんとして大前提だいぜんていしてしまうようでは、デマを生み危険きけん人物じんぶつ警戒けいかいする必要ひつようさえ生じてくる。

 残念ざんねんながら現実げんじつにはこういった幼児ようじ水準すいじゅんのジョージの分析ぶんせき大人おとな世界せかいでもれている。傾向けいこうとしては低年齢ていねんれい低学歴ていがくれきになるほどおおくなるはするが、形式けいしきてき大人おとな高学歴こうがくれきであっても実質じっしつてき未到達みとうたつ訓練くんれん不足ぶそく同様どうようになっているようではあるし、なかにはひょっとしたら障碍しょうがいてき不能ふのうひともいるのかもれない。のまわりのはなしでもなにかしらおぼえはあるのではなかろうか?たとえばっている男女だんじょ一緒いっしょあるいているところけただけできだとか付き合っているという噂話うわさばなしになってしまうことなどは。このブログの内容ないようえば、たとえばラ=ロシュフコーの文句もんく引用いんようしたら「ラ=ロシュフコーに興味きょうみっているにちがいない」になったり、否定ひていてき内容ないようかんじると、「機嫌きげんわるいにちがいない」、めたり話題わだいつづいたりすると「きにちがいない」といった、本文ほんぶん主旨しゅしとはまった関係かんけい解釈かいしゃくをしはじめるひとかならてくる。

 実際じっさい感情かんじょう行動こうどう興味きょうみ関心かんしんおおきな要素ようそになるひとはいるだろう。つかまって「ムシャクシャしてやった」という動機どうきみとめる犯罪はんざいはその極端きょくたんれいになる。しかし、それがすべてにてはまるかいなかはまったべつで、ある特定とくてい事例じれいとなってくると「相関そうかん関係かんけい因果いんが関係かんけいべつ」という問題もんだいてくる。「赤信号あかしんごうているひとあかきだ」では、「みどりきなひともいるはず」とみどりばかりの信号しんごう用意よういしたジョージにすらおとことになる。

 ひとなにかを判断はんだんするときにこういった感情かんじょうられる度合どあいにかんする調査ちょうさがあれば興味深きょうみぶかいところだが、このこころはたらきをあつか学問がくもんでさえ、なんでもかんでも感情かんじょう起源きげんにしてそれしかいと断定だんていしているジョージの分析ぶんせき多々たた見られるのでてにできない問題もんだいはある。

 ジョージの分析ぶんせき出会であうもっとまえに、あか食欲しょくよくさそうというはなしいて疑問ぎもんおもったことがある。だからマクドナルドもロッテリアもケンタッキーフライドチキンもみんなあか看板かんばんだと一見いっけん納得なっとくできそうにおもえるが、しかしその理屈りくつだと神社じんじゃ鳥居とりいあかいのも食欲しょくよく起因きいんすることになる。神社じんじゃへおまいりにくのにおなかいているからとかんがえることはあるだろうか?あのしゅ魔除まよけのあかだろう。鳥居とりい結界けっかいを表している。そして中華ちゅうか料理屋りょうりやあかおおいのも食欲しょくよくではなく魔除まよけのあか中国ちゅうごく伝統でんとうてきこのまれてきたという習慣しゅうかんぎない。とくに気にしていないひとおおかろう。あお看板かんばんのローソンやスリーエフと、あか看板かんばんのデイリーストアやサンクスで食品しょくひん売上うりあげ有意ゆういみとめられるというはなしいたことい。

 大学だいがく受験じゅけんのころにんだはなしではこういうものもあった。

〈3〉 論理ろんりよりも感情かんじょう優先ゆうせん


日本にほん批評家ひひょうか立場たちばとそのなげ

 論理ろんり容易ようい無視むしするこの相対そうたいてき価値観かちかんは、現実げんじつ日本人にほんじんひとひととの関係かんけい、やりとりに如実にょじつ発揮はっきされている。そして、とく知的ちてき活動かつどうにおいて致命ちめいてき欠陥けっかん暴露ばくろするのである。そのもっともよいれいひとつは、日本人にほんじんによる「批評ひひょう」の確立かくりつ困難こんなんさであろう。

 あるとき中村光夫なかむらみつおが、日本にほんにおける評論家ひょうろんかという立場たちば評論ひょうろんけとられかたなげいていたが、筆者ひっしゃまった同感どうかんである。

 作品さくひん自体じたいについてろんじているのに、ちょっとほめると、「あいつはオレに好感こうかんをもっている」ととられ、ちょっとけなすと、「あいつはケシカランやつだ」とくる。作品さくひんをとびこえて、パーソンたいパーソン直接ちょくせつ感情かんじょうてき出来事できごとできごとになってしまう。

 また、ごく少数しょうすうの(これは雨夜あまよほしぐらいの割合わりあいだが)ものをのぞいて、評論家ひょうろんか書評者しょひょうしゃのほうでも、往々おうおうにして感情かんじょうてき文句もんくろうしているのがつねである。「これはった」だの、「著者ちょしゃ問題もんだい意識いしきうたがう」だの、「著者ちょしゃはまだ苦労くろうりない」とか、「著者ちょしゃ周囲しゅうい人々ひとびとがどうだ」などと、作品外さくひんがい著者ちょしゃ態度たいどとかパーソナリティにまでおよぶと同時どうじに、自分じぶん感情かんじょう投入とうにゅうをさかんに行なう。書評しょひょうというもののスタイル・内容ないようが、著者ちょしゃとの人間にんげん関係かんけいできまってしまうことがおおい。

 はっきりいうと、らないひとのもの、自分じぶん反対はんたいひとのものにたいしては、悪評あくひょうをするが、知人ちじん仲間なかまとく先輩せんぱいのものにたいしては、かならずといっていいくらいほめている。そして、往々おうおうにして(筆者ひっしゃなどもついそうなってしまうのだが)、本当ほんとう作品さくひん弱点じゃくてんをついたのちにこる、いまわしい、パーソナルな感情かんじょう攻撃こうげきをされることをかんがえると、ついおざなりのことをいておちゃをにごしてしまいたくなるのである。あるいははじめから依頼いらいことわるしか方法ほうほうがない。結局けっきょくそんをするのは第三者だいさんしゃである読者どくしゃであり、これはおおきな社会しゃかいてきマイナスである。書評しょひょう信頼度しんらいど非常ひじょうひくいということである。

真の「対話たいわ」がありえない社会しゃかい
 こうしたわずらわしさは、なに書評しょひょうなどという特殊とくしゅ領域りょういきかぎられているのではなく、わたしたちが、毎日まいにち生活せいかつ経験けいけんするものである。ひとのことをいったり、ある事件じけんに、ある問題もんだいかんして、わたしたちが自分じぶん意見いけん発表はっぴょうするとき、対人たいじん関係かんけいとく相手あいてあたえる感情かんじょうてき影響えいきょう考慮こうりょれないで発言はつげんすることは、なかなかむずかしい。
 もちろん、いずれの社会しゃかいにおいても、こうした考慮こうりょおおかれすくなかれあるわけであるが、日本にほん社会しゃかいにおけるほど、極端きょくたん論理ろんり無視むしされ、感情かんじょう横行おうこうしている日常にちじょう生活せいかつはないようにおもわれる。
 その証拠しょうこに、日本人にほんじん会話かいわには、スタイルとして弁証法べんしょうほうてき発展はってんがない。「ほめる書評しょひょう」と「けなす書評しょひょう」しかないように、「ごもっともで」というおせつ頂戴ちょうだいしきの、一方いっぽう交通こうつうのものか、反対はんたいのための反対はんたいしきの、平行線へいこうせんをたどり、ぐるぐるまわりして、結局けっきょくはじめとおなじところにいるという、いずれかの場合ばあい圧倒あっとうてきおおい。
中根なかね千枝ちえ, 『タテ社会しゃかい人間にんげん関係かんけい』﹐𝒑𝒑․𝟏𝟕𝟑−𝟏𝟕𝟔﹐𝟏𝟗𝟔𝟕ねん昭和しょうわ𝟒𝟐ねん, 講談社こうだんしゃ現代げんだい新書しんしょ


 ただし、こういう感情かんじょうてき分析ぶんせき外国がいこくにもって日本にほん特有とくゆうというわけではないし、出版しゅっぱん年代ねんだいからもわかるように、ネット時代じだい特有とくゆうはなしでもない。そしてコミュニケーション障碍しょうがいが「最近さいきんじゃない若者わかもの」にもはまことえてくる。

 なお、「弁証法べんしょうほうてき発展はってん」というのは「定立ていりつ反定立はんていりつ止揚しよう」という段階だんかいことだろう。大雑把おおざっぱえば、ある話題わだいして、それと矛盾むじゅんしたり反対はんたいになる視点してんしてみて、それらを整理せいり統合とうごうしたりよりかたち発展はってんさせていく手法しゅほう日本にほん場合ばあい反対はんたい意見いけんうとそれは「反抗はんこう」「反逆はんぎゃく」という解釈かいしゃくをされるか、形式けいしきてき発言はつげん機会きかいだけあたえてアリバイづくりをしたのち、無視むしをするということ学校がっこう教育きょういく段階だんかいからすでたたまれる。そうやって従順じゅうじゅんそだった人間にんげん優秀ゆうしゅう人材じんざい評価ひょうかしたうえで、「あたらしいアイデアをせ」とか「自由じゆう発想はっそうを」とか「スティーヴ・ジョブズのようになれ」とし、「優秀ゆうしゅう人材じんざいがいない」となげいて「欧米おうべいは~なのにこれだから日本にほんは……」と論評ろんぴょうするところまでが一式いっしきほか反対はんたい意見いけんこと無理むり矢理やり強要きょうようするとか、習慣しゅうかんに付いていないひとたいして突然とつぜん自由じゆう表現ひょうげんさせることして戸惑とまどっている様子ようすをして金太郎飴きんたろうあめとか教育きょういくだと一方いっぽうてき非難ひなんするだけとか、単発たんぱつ課題かだい機会きかいあたえてどちらにでも対応たいおうできるタイプを見抜みぬけず否定ひていしていくなど、時代じだいるにれてどんどん分岐ぶんきえているが、実質じっしつてき定立ていりつ状態じょうたいまっているてんわらないという皮肉ひにくがある。また、余計よけいことかんがえずすでにある定立ていりつしたがったほう試験しけん高得点こうとくてんれ、高学歴こうがくれきつながったり資格しかく取得しゅとく昇進しょうしんつながったりすることから、「そういうことはあとでやればい」というかんがえもまれる。しかし教育きょういく年代ねんだい未経験みけいけんだったり普段ふだんからおこなっていない場合ばあい、あとになってからは簡単かんたんにはに付かなかったりする。かとって学歴がくれき資格しかく地位ちいければ発言はつげん機会きかいいか、「なにったかよりだれったか」を重視じゅうしする人達ひとたちたいして説得力せっとくりょくたないという問題もんだいしょうじる。真面目まじめかんがえるならこのはなしはけっこう複雑ふくざつなのでまたべつ機会きかいれる。

 分析ぶんせきにおける感情かんじょう分離ぶんりかんしてはけっして特殊とくしゅはなしではなくて、高校生こうこうせいにさえ要求ようきゅうされている。できているひとはできているし、一定いってい訓練くんれんんでいるひとんでいる。

 設問せつもん1にこたえるためには、段落だんらく内部ないぶ分析ぶんせき必要ひつようになる。ところが、これができない。分析ぶんせき能力のうりょく欠如けつじょ現在げんざい受験生じゅけんせい大学生だいがくせい共通きょうつう欠点けってんである。対象たいしょうとなる課題文かだいぶん文章ぶんしょう分析ぶんせきできなければ、著者ちょしゃ意図いと正確せいかく把握はあくすることはできない。ある程度ていど英語えいごめるだけでは、この分析ぶんせき能力のうりょくやしなえない。(中略なかりゃく) 内容ないよう理解りかいするちから内容ないよう分析ぶんせきてき把握はあくするちから、これらは論文ろんぶん試験しけん必須ひっす能力のうりょくである。その意味いみで、分析ぶんせき能力のうりょくけることは理解りかい基礎きそえる。しかるべき訓練くんれんをされたい。

 分析ぶんせき論述ろんじゅつとはちがうことを理解りかいしないひとおおかった。分析ぶんせきもとめられているかぎり、著者ちょしゃ見解けんかいたいして自分じぶん意見いけん提示ていじする必要ひつようはない。一部いちぶ答案とうあんにはこのてん混同こんどうみとめられた。さらに、愛国心あいこくしんをかきてられたひともいたが、そのひとたちはそうじて英文えいぶんめていないひとであった。はからずも勉強べんきょう大切たいせつさを確認かくにんできたことになる。

「〈進学しんがく参考さんこう資料しりょう採点さいてん講評こうひょう論文ろんぶんⅠ」『𝟗𝟔年度ねんど駿台すんだい東大とうだい入試にゅうし実践じっせん模試もし後期型こうきがた〉』𝒑․𝟑𝟕․ 𝒍𝒍․𝟏𝟑−𝟑𝟎駿台すんだい予備よび学校がっこう全国ぜんこく入試にゅうし模試もしセンター﹐𝟏𝟗𝟗𝟔ねん平成へいせい𝟖ねん


 課題文かだいぶん𝐑𝐮𝐭𝐡ルース𝐁𝐄𝐍𝐄𝐃𝐈𝐂𝐓ベネディクトゥ﹐❝𝑻𝒉𝒆𝑪𝒉𝒓𝒚𝒔𝒂𝒏𝒕𝒉𝒆𝒎𝒖𝒎クリセンタマム𝒂𝒏𝒅エンドゥ𝒕𝒉𝒆𝑺𝒘𝒐𝒓𝒅ソードゥ ﹐ 𝑷𝒂𝒕𝒕𝒆𝒓𝒏𝒔ペターンズ𝒐𝒇オヴ𝑱𝒂𝒑𝒂𝒏𝒆𝒔𝒆ジャパニーズ𝑪𝒖𝒍𝒕𝒖𝒓𝒆カルチャー❞﹐﹙𝟏𝟗𝟒𝟔﹔𝐓𝐨𝐤𝐲𝐨トーキョー: 𝟏𝟗𝟓𝟒﹐𝟏𝟗𝟕𝟗﹚、邦題『きくかたな』。ここでの対象たいしょうがたまたま英文えいぶんだっただけ、作業さぎょうがたまたま論文ろんぶん試験しけんで、これは和文わぶんでも何語なにごでもおなことだし、試験しけんではなく普通ふつう文章ぶんしょう説明書せつめいしょであってもおなことになる。また「設問せつもん𝟏」がたまたま分析ぶんせき要求ようきゅうしているというだけで、本質ほんしつてきことは、要求ようきゅうたいして私見しけんじって分離ぶんりできていない;設問せつもんてきしたこたえができていない;キャッチボールが成り立っていないというはなしになる。
posted by Marimó Castellanouveau-Tabasco at 05:53| 情報処理 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする