2018年01月02日

満ちまして、益々おめでとうございます。

 いつもより余計に光っております。

 それはともかく昨日こんなニュースが目に入った。

 正月返上 中学受験の子どもたちが勉強合宿

 そういえば毎年この時期恒例のニュースな気もする。私は中学受験期の年末年始は、直前に出たばかりのロールプレイング・ゲームに夢中だった。人生で初めて徹夜したのが中学受験の年の正月休みだったが、それはゲームでだった。高校受験と大学受験の頃の年末年始は何をしていたのかおぼえていない。中𝟑の頃はおそらく年賀状を描いていたろう。大学受験の頃は「受験だから年賀状は割愛」と言い訳を作ったが、かといってその分いつもに増して勉強していたとも思えない。個人的には問題集を解いたり暗記の作業をしたりすることを「勉強」とは思っていないが。なんだろう?作業とか練習と言った方が近いのかな。イメージ的にはバッティング・センターでひたすら球を打ち返しているに過ぎないという印象。続けていればプロでも投げない𝟏𝟕𝟎㎞∕時以上の球だって打ち返すことが出来るようにはなるだろうが、それと実際のゲームの中で様々な環境要因に左右されながら人の投げた球を打ち返すのとは別、という話と同じものを感じる。

 その点では五輪の関係で最近話題にされることも多いボルダリングにも感じる。幼児期から小𝟑・小𝟒くらいまでは屋内の扉の枠や二段ベッド、簞笥の上に始まり、屋外の家の壁、庭石の上、ブロック塀、瓦屋根、トタン屋根、排水管、立木、金網、車……様々な場所によじ登って遊んだので、登ることの楽しさ自体はわかるが、どうもあの殺風景な室内にいかにも欧米の発想らしい、けばい色のついたでっぱりをつかみながら、腕力に任せてはいあがっているだけの「作業」には魅力を感じない。屋外の環境で登る時には「登っていいか」「みつからないか」「壊れないか」「降りる時はどうするか」……様々な要素を考慮しながら行うし、景色も違う。つかむべき物が有るのか無いのかも全て自分でみつけ、判断する必要がある。場所や天気や時間帯や目的によって考えることが変わってくる。それが「ふつう」で育っているので、安定した環境が保証された中でただ速く登って安全装置で降りて来る様子を見ても、伝わって来るものは特に無い。ルートを考えたり体を鍛えたりする努力や、難しいコースをたどり終えた達成感を強調するのかも知れないが、ここで「達成感」の想定に違いが生じることになる。「速く登って𝟏位になった達成感」なのか、「用意された環境で一部だけを競っているにすぎない」なのか。感覚が人によって違う。これは以前『「共感する」ということの情報処理』で読書についても話題にした。同じこと。事前にすり合わせをせずに会話しても、「ボルダリング」で想定する背景や経験は異なる。「ボルダリング」という定義づけされた競技は知っていても、小さい頃にあちこち登った経験がなければ、身のまわりにどういった天然の「ボルダリング」があるのかは想像がつかないだろう。𝟑𝟎階の高層マンションに住んでいたら自宅の屋根に登るといったことも想像がつかないと思う。鍵を持っておらず親がいなければ管をつたってベランダにあがり、窓から家に入ったこともあったが、想像がつかないと「泥棒をしていたに違いない」なんて極論にいたる人だって出て来る。この、子供時代の天然ボルダリングがわかる人には馬鹿馬鹿しい発想も、環境や経験がなく知識としての競技ボルダリングしか知らない人には決して極論ではなくなってくる。この点は先日「暮れまして、お悔やみ申し上げます」で前置きしておいた情報処理とも関連してくる。

 そして最初の正月返上の受験勉強にも話が戻ってくる。「努力」「情熱」「達成感」という言葉を考える時、あの正月返上の受験勉強合宿はそれに当てはまるのか?大学受験や就職面接や人材育成を扱った教育論ではしばしば、「勉強ばかりして」「詰め込み教育」という形で悪い事例としてとり上げられるが、ああいった正月返上の受験勉強合宿でも先生は「努力」「情熱」「達成感」やそれに類似した内容の発言はしているだろう。そうなった時、何が違うのか?という問題がある。なぜ問題を解くのは駄目で、スポーツや楽器の練習ならいいのか?どちらも努力じゃないのか?どちらも詰め込みじゃないのか?この点についてとり上げる教育論に個人的には出会ったことがない。おそらく疑問に思っている人は多数いるとは思うが。

 一応個人的にはスポーツだろうが芸術だろうが受験勉強だろうが、大会やコンクールや入学試験を前提にして特定の技法習得目的で無思慮に反復を繰り返している点では暗記と詰め込みに変わりないと思う。実際、芸術コンクールでも技術と表現や感性のバランスの問題は指摘されるし、スポーツでも競技によっては創造性や対応力・修正力は言われる。それは詰め込み教育で批難されることと同じ話。

 正月返上の受験勉強合宿に共感は無いし、同じ服着て鉢巻きしてる様子はどこかの宗教団体かのようにも思えてしまうが、ただ、正月を潰すかどうかはともかく、中学受験の上の方の世界で𝟏𝟐歳の子供がどんなことを要求され、どれくらいの作業量をどれくらいのスピードと密度でこなしているのか?というのは、未経験の人にも知る機会があってもいいのかな?と大人になってから感じた。経験したことが無い人にはなかなか想像がつかないようなので。上位の中学受験クラスの子供たちの仕事量は、その辺の会社の大人の仕事量を上回っていると感じる。厳しい言い方すれば、中学𝟏年生でもすでに、大人よりもっと速く正確に仕事ができる子供たちが少なからずいるのだということ。彼等が更に𝟏𝟎年経って社会人になるわけだから、当然もっと差が開いていることになる。社会では年齢別に階級制はとってくれないので、同じ土俵で勝負しないといけなくなる。自分の知っている範囲内で「努力」や「情熱」の尺度を決めて「達成感」を感じるのも悪いことではないのだが、やはり差も知っておくべきじゃないかなとは大人になってから思った。もし自分が企業の人事で研修担当をしたら、未経験の人には小𝟔の中学受験上位クラスの授業を同じテンポで体験してもらうということはやってみたいと思ったことがある。

posted by Marimó Castellanouveau-Tabasco at 23:59| 情報処理 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする